最近知った二つの事実、周辺の史料にはあるのかもしれないが勉強不足で承知していなかった。
■沼田家の熊川城退去の事
現在武田元明の家臣であったというM家の先祖附を読んでいる。祖の玄蕃丞というひとは、若州小浜からほど近い瓜生の
膳部山の城主であったという。
その嫡子・右馬允は天徳寺の城主で、瓜生・井ノ口・天徳寺の三ケ村1,770石を治めていた。
いずれも若狭街道沿いの村々だが、そのすぐ先に細川幽齋夫人・麝香の実家沼田家の熊川城があった。
鯖街道熊川宿
M氏についていろいろ調べていく中で、この二人の時代に沼田氏の居城熊川城はM家の手により落ちたらしい。
これにより沼田氏は細川家を頼って客将となった。
そしてM氏親子は柴田勝家の賤ケ岳攻撃(天正11年4月)に加わり戦死している。
先祖附には武田家の没落に伴うその後のご子孫の苦労と、種々の活躍の模様が記されているが、沼田氏の熊川城退去の
詳細を知るきっかけとなった。感謝。
■有吉平吉の細川家仕官の事
これは前回の史談会の折、会員のKさんから教えていただいた、大坂城天守閣蔵の史料の中の、有吉平吉にかかわる光秀書
状の影写史料である。
細川家三卿家老の一つとなる有吉家の3代目が平吉(四郎右衛門立言)である。
この史料は、光秀の細川家に対する影響力を示す資料として受け止められているらしい。
有吉平吉身上の事、此の間各御馳走の由承り及び候、若輩に候と雖も、
御用にも相立てらる由承り及び候条、尤の儀に候、 弥別儀においては、
帰参の事藤孝へ御断り申し度く候、御入魂においては祝着たるべく候、
委曲御返事に示し給ふべく候、恐々謹言
十二月廿四日 日向守 光秀(花押)
岡本主馬助殿
岡本慎三郎殿
岡本甚介殿
岡本孫次郎殿
御宿人々
意訳 若輩者ながらお役に立つ男だとのこと、特別に帰参の事について藤孝を説得したいと思う、これからも面倒を
見てくだされば有難い。
いろいろ調べて居たら、次のような論考を見付けた。「明智光秀の丹波支配と国衆」
帰参という言葉が在ることからすると、有吉平吉は一度藤孝の元をはなれ、この時期国衆の岡本一族の元にあることがわかり、
それをまた藤孝の元へ返すことに尽力しようというものであり、光秀の国衆支配と細川家への影響力を知ることができる。感謝。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます