津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■書簡がが語るもの‐上田久兵衛あて木下韡村書状

2021-05-22 13:40:26 | 人物

 わが高祖父又太郎の岳父・上田久兵衛は、木下韡村(真太郎)におおいに私淑していた。
年譜によると、天保9年(1838)九歳で時習館に入塾、「韡村先生の薫陶を受くること深し」とある。(韡村・34歳)
韡村は文化2年(1805)8月生まれ、久兵衛は天保元年(1830)2月生まれだから、年齢差が25歳ある。
久兵衛が時習館で居寮生まで進みえたのは、韡村の影響が多分にあると思われる。
長く尊敬の気持を以て厚誼は長く続き、木下家文書の中には、久兵衛に宛てた書簡が三通残されている。

韡村は慶応3年(1867)5月6日に死去しているから、久兵衛37歳までの頃までの書簡であることが判る。

        

 或る時、久兵衛は真太郎(韡村)を訪ねる約束をしていたが、真太郎の家族が「殊之外寒気」の折「風邪病人相増」「小児ニ手入申候而」の状況であるからと、真太郎は久兵衛に対し断りの書状を送っている。
韡村が真太郎と名乗ったのは嘉永五年(1852)の二月というから、47歳と随分遅い時期である。この時期久兵衛(当時忠左衛門)は22歳である。久兵衛の名乗りは安政三年(1856)の家督(27歳‐韡村52歳)の時であろうとは、鈴木喬先生のご教示である。

 ふと、韡村の子で初代大総長を務めた木下広次こそがこの風邪をひいた「小児」ではなかろうかと考えた。
ウィキペディアによると生年は嘉永4年(1851)2月とある。安政三年には5歳、可能性はある。
弟で最高裁判事を勤めた哲三郎氏は翌年の嘉永5年の生まれである。その下に二人の女子が在る。

 元治にはいると、久兵衛は京都留守居役となり国事に奔走することになる。
それ以前の間のものではなかろうかと推察されるが、年号がないのが何とも悔やまれる。



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1 コメント

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Unknown (熊本所縁の京都人)
2021-05-22 23:30:43
揚げ足取りのコメントばかりで申し訳ありません

木下廣次は「東大」ではなく「京大(京都帝國大學)」の初代総長ですね
京都黒谷の墓所は、狩野君山の墓所と隣接しております
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