津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■加藤忠廣代・熊本城下地図

2014-10-20 12:11:59 | 地図散歩

 最近熊本城の馬具櫓が改修されて多くの人が見学に訪れている。この馬具櫓と書物櫓(現在はない)の間から藩主の居館・御花畑邸に向かって下馬橋が架けられていた。
江戸期を通しての絵図をみると、花畑邸の前は広大な勢屯となっており下馬橋はこの勢屯からすると、随分右に寄っていて奇異な感じがする。
さてこの寛永初期の絵図を見ると、その疑問が払しょくされる。つまり花畑邸の前の勢屯はこの時代は存在せず、細い道が存在するのみでほぼこの道の延長上にあることが判る。
花畑邸は忠利の肥後入国後しばらくしてから居館になったものであり、加藤時代は数寄の屋敷といった性格であったのだろう。

絵図の屋敷に「上々々」とか「上々」「上」「中」等が書き込まれているが、これに連動するように有力家臣がその屋敷を拝領していることが判る。
そして細川家の入国後、これ等の屋敷を拝領した人たちも加藤家同様有力家臣が入居しており大変興味深い。

 

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■「旦夕覺書」--風・9

2014-10-20 06:46:36 | 史料

                        一、真源院様江戸にて御逝去の年御参勤の砌立田にて皆共見物仕候 拙者は五つに成内入者九つと被申候
                          半こふにそり髪をゆひ被申候由就夫御目に立申誰か子かと御尋させ被遊候と内入被申候 拙者は唯御
                          駕に黒き御小袖を召させられ御色白く被成御座候と斗覺申候 正月の飾物なと伯父三人の内誰とは覺
                          不申候 法師に成り被申候は覺右のかさり物取捨させ被申候を取除被申事は覺申候 翌春 御遺骸下
                          着唯今御花畑と御馬屋の間の廣き所に御家中の妻子各罷出拝申由其刻拙者は六つに成候由 御通
                          被遊候跡にて女中何れも聲を上涙を流し候時拙者も高聲にて泣候由事の外高く候故なかぬ物々々々
                          々とすかし候へはいやなこふと申一しほ高く泣候由母後に度々被申候故右の通かすかに覺申候 直に
                          川端通船場橋より妙解寺へ被成御座御家督延引仕候に付御家中にても上下の内侍中夫々心替り色々
                          わる口被申たる衆中老父打寄咄被申候覺申候 長谷川仁左衛門殿老人にて武功有之人にて幼少より親
                          召連参候故男振覺居申候か小男にて若き時唐瘡煩被申候由鼻もひしけ見苦敷男振にて候 直江山城與
                          力にて度々上杉の家にて武功御聞及八百石にて被召出即座に千石の折紙被為頂戴候 是にて察可被申
                          候 此仁左衛門所に御家中老若心ある者皆々毎度咄に参候よし拙者も幼少にて覺申候 大里儀太夫・大野
                          傳兵衛抔は拙者覺申候 右の御跡目不被仰出候内は熊本上下の侍一人も野邊へ出不申ひつそりとして
                          居申候由然處に或日大勢咄申候に仁左衛門被申候は今日は天気能く段山邊に気はらしに各同道可仕
                          と被申候へは各見合返答無之故何と憚入候哉と被申候時何も申候は唯今の時節上下侍中遠慮に存不
                          罷出候 尤曲輪より外には尚以にて候由申候へは笑ひ々々其筈々々拙者致同道候程に各心安く被存候
                          へケ様の時節は別て若き衆は手足すくやかに心も夫に應しすくやかに成物にて候 山にて何も同道に
                          て段山にて茶辨當くわし抔持参三盛は殊にかわゆかり被申候ゆゑうすへり敷枕に臥し被居候處近
                          くに居申候 御城つく々々見被申三盛に被申候は何と々々拙者には可被存若き時より東國中の城
                          々を見ぬはなく候 御城つく々々見申扨々能枕にて老人の心底察被申候へと被申候 三盛も心に萬一
                          の時は 御城にて打死と被極たると早心にうかみ申と被申候 其後御家中上下歴々も尤と存候て野邊
                          へ出申候由三盛申聞候 八十に成候て少も失念不仕候 扨も々々左様に可有事御家中多き士にて候へ
                          は仁左衛門武功におとらぬと可有之儀に候へ其時節に逢不被申候へは委細に心付申さぬ筈にて候 ケ
                          様の事老功の武道を能吟味被仕たる物と存候 佐久間半之丞は大坂にて能三千石にて唯今備前殿屋敷
                          に居被申候 此半之丞被申候由先年江戸にて野田小三郎咄申候 半之丞には色々咄多き人にて候武士の
                          道の相談可仕は長谷川仁左衛門と被申たる由是にて察可被候 唯今の長谷川久兵衛曾祖父にて候 

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■「旦夕覺書」--風・8

2014-10-19 09:03:16 | 史料

                一、幼少の時三盛・拙者両人者老父臥し被申候跡に寝せ色々の咄聞せられ候 十歳斗の時と存候 三盛拙者に
                  臥なから色々小歌其時分のはやり事下々の申儀なと互に申候 其時分は切支丹宗門の御改毎月ふれ小
                  身者家内にも帳をとち男女手に墨付させ判形のことくさせ申候両人に被申付候 其時ていうすさんた
                  まりやなとゝ申事思ひ出し三盛ひたと拙者に覺ぬかとて被申候時扨々うつけめか左様の事を覺何
                  の役に立事かと以の外腹立夜更候へ共三盛を踏付被申候へは逃て次に被参候處を又起て追被申候
                  へは長屋迄被参候 老母もおき色々断被申候へとも聞不被申拙者はおそろしく震ひ居申候へは気に入
                  夫程おそれ申か能そ天下の御法度殿様よりの毎月の御觸にて候にかりそめにもあの様なるあほう成事
                  又は下々のはやり言はいはぬ物そと被申候 唯今八十に成候ても失念不仕候 扨も々々ケ様成事を覺候
                  ても幼少より公儀の重き事申聞せられたる其志能々可被思知候 與風存出し書置候
                一、右の時分茶の間にてわるさ仕候故老母しかり候へは腹たち薪有之を投打いたし候へは内入居被申お
                  とれめは母に投打仕候哉とたゝき可被申と被仕候處に其儘逃け門外に出其後歸候へは母被申候は親
                  に不幸成者は 天道御にくみ候男女に限らず天窓を打申事はせぬ物にて候 天窓には不断神か御座候
                  尤下々男女の事にても告口せぬ物に候 立聞とて人の物云をしらぬ顔にて聞ぬ様にするのは道をあるく
                  とても不幸成者のありき候へ者地神とて土の下に神ある物にて剱をさかさまに立たるよりはいやに
                  思召孝者成者の歩行候へはとふしみ一筋置きたるより輕く思召物とて色々のおしへ被申候 八十に成候
                  ても少も忘れ不申只今思ひ出落涙仕候 扨も々々両親ともにおしへ被申候事皆々 天道神を敬申候斗
                  に候 各心得子孫に傳へ可被申候 皆々拙者に親母の被申たる事各の為に成可申候 扨拙者果申候ても必
                  々精心無用に候傳右衛門は格別夫もよそへ参申或は悦の座敷へ参候て扨々能所へ参候とて魚鳥給不
                  申今日は親の日なとゝ断申事てい主の心に祝事にては心にかけ可申候 其心をやふり申事あしく候 心
                  に精進の事忘れ不申ために御主の日は格別と親被申候 五十年以前十左衛門殿初て江戸へ御越候時拙
                  者毎度咄申候 拙者精進多く候 誰々かと御尋候故に其時分同名八右衛門八月五日に被致病死候兄是安
                  は八月九日両日共に朝斗精進仕候と申候へは八右衛門日は跡継候子可仕候伯父多く候に無用是安者
                  跡なく候一日の筈に候と御申尤に存少も忘れ不申近年は誠に精進多く毎月朝も止申征月斗は八月五
                  日・九月廿三日不白は四月六日かと覺申候 江戸に居候時にて唯今も慥に覺不申候 右の通に候間必々内
                  入被仰置候とも拙者存生に申入候 たとへは々々々々征月に召れ候はすとも此一冊を御覧候て祖父祖
                  母は見られ不申候へとも如斯の心底其本を御吟味可有候 拙者に被申候事を如此処傳申筈に候 尤了簡
                  御吟味候て善悪御わけ候事不及申當然の道理に叶候様にと存候 祖父祖母より生れ増たる者世に多く
                  候 かろき事は其時々の風にまかせ被申候様にと存候 信は古へ今に日月の如くにて候人たる者は本
                  武士たるは義理を専一に用申候 軍書近くは大坂夏冬の御陳にて如斯天下治申候 其後島原記此時者
                  御父子様御供御家中不残被召連候 拙者も随分致吟味書置候 御心付御覧可有候 尤夫々の働の次第は委
                  細に見へ不申候へとも定て御褒美の如くと存候 大坂關ケ原皆々天下にしられ能武士と申者いつれに
                  ても信を用申候 御明将の御吟味にも兎角勇を好は世上に常に候へとも吟味仕候へは唯律儀成者武士
                  は第一に好申候 律儀成者は此筈士の役と存武道能頼母しく存候 血気の勇者不頼母敷小身者は他家を
                  仕候ても立身望大身成者は謀叛を工み兎角頼母敷と存候者は律義者ならではと御意候旨加藤左馬助
                  殿御申候様に何やらの書に見へ申候心を付見候へは大坂陳の刻水野日向殿右筆にて廣田儀太夫と
                  申者五月六日の合戦の砌そはに居候役故念比に思たるか今日は先手へ参候へと御申候 忝と申参候て
                  高名仕能歸申様には明日は其儘御側に被召置被下候様にと申其時何も先手を好可申にこりたるかと
                  目引鼻引笑申候 扨七日の合戦に日向殿御手に大坂方より大勢突かゝり日向守殿も自身鑓にて二三人
                  御働首は家来共に御とらせ候 右の儀太夫如斯可有之事を前六日に先手に参働心にかけ候故一番に日
                  向守殿前にて討死仕候 餘り志を不便に思召候て御覧候得は少息も有之故かうかいにて口を御あけ御
                  薬御用候へは気も付次第に能く其後有馬に湯治被仰付候て段々御取立御家老役に成候よし勇士一言
                  集に有之候 寫置候へ共近年見へ不申候何方へ借申候哉繪入たる書物三冊有之候を一冊に寫置たると
                  覺申候 御吟味候はゝ後々出可申候 難波戦記には廣田儀太夫なと能き働と迄有之如此委細に者見へ不
                  申候
                一、兄弟三人少成人仕寄合四方山の咄いたし候時老父被申候はいかにも々々々々左様に寄合候て咄申事
                  は能々惣別人の吟味他人は内證の事不知物に候 八右衛門角本文左衛門三人は奥へ参候 三人の伯父其
                  事を能々見候てたれは是が能きと致吟味其能と思ふをまねて見習候へはと被申候事唯今も存尤成
                  事に候 

                   

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■「旦夕覺書」--風・7

2014-10-18 06:52:42 | 史料

                一、四十年前屋敷拝領の刻は林兵助・村井源兵衛拙者三人にて候 其刻唯今江戸被仕候關川杢太夫親關川
                  検校は拙者兄是安・同名文左衛門心安く語りたるとて拙者も同前とて心安く被申候 熊本へ御供にて被
                  参候 其時澤村一官も別而にて振舞い被申鹽屋町屋敷に居被候時にて右關川相伴に同名文左衛門・大鹽彌
                  五右衛門・拙者参候筈にて文左衛門所へ参候へば早關川は参咄申候處に拙者参候へば傳右殿は屋敷
                  望と承候夜前御前に堀次郎右殿御召被仰付候 私も居申候 三人の者共屋敷望候由只今御吟味被成候
                  へば家有る屋敷三ヶ所有之由定て夫にも上下可有之思召候 右三人は同じ様なる者共にて此内傳右衛
                  門は老母も有之つうに似ぬ孝行成ると被聞召候 兎角くし取にて相渡候へど御懇比の様子と被申聞候
                  段被聞召候事近比恭内に迷惑至極奉存候 如御存知喜左衛門は諸人私よりはていねい成ると申三盛
                  は醫者にて毒薬のわけ能存老母給候朝夕の物迄念を入申候 私方へ母節々逗留仕候は御存知のごとく
                  定御供にて熊本に居申事すくなく就夫三十日に廿日は私方に居申候 毎度食傷なども仕候故餘り逗留
                  無用と拙者へも度々申候へ共母心次第と留も不仕候 右の通私のを孝行と被聞召候儀は忝内に却て致
                  迷惑候 能御聞被下候へ々々々々と返々申候 其刻文左衛門殿申たると被存たる面色に見へ候 扨彌五右
                  衛門も参一度に参候へば一友に關川申候は前夜是に参候事御前にて申上候へば土之丞に能申聞候へ
                  御禮日に御覧被成候へば若き時の風今になをり不申と思召候 衣類上下迄に御心つけられ候へば關川
                  申候 料理迄覺申候本膳の向に腹赤鯛を出し被申關川悦申候 高瀬に縁有之調申と一友被申候 其外は覺
                  不申候 拙者も珍敷覺申候如斯實に内入・三盛孝行拙者はおよひ不申と存即座に有様に申候 何事も物毎
                  につくろひ不申有様に申度是も昔の能き侍の咄毎度承申老父影にて候 是に似たる咄毎度山名殿・大木
                  殿にて承候へ共皆々我物に出来たる様に上下申事能見覺候 勿論おのづから出たる事可有之候へとも
                  能き事と申は皆々古人の言或は父老體の昔咄承おのづから與風出合申のみと存候故此間は別て果
                  候間もなく存各同苗中悪名を受申さぬ様に日本の神ぞ御加増御座候へ位も能く御成候様にとはさか
                  み不存候 唯今の通りに候へば各親より能き所も有之候 拙者も見申候 然れども年寄巧者に成候程實に薄
                  く成當世の風に成申右井田に咄申たる様に拙者心に覺申候 先御代よりの上下侍拙者程大勢出合申者
                  は又有間敷候 山名殿前へ出候程の男に拙者しらぬは無之候 上下の侍に是は實成人と存たるは少く大
                  身程輕薄多く覺申候 打死追腹心懸見可被申候 小心者には多く候 島原にても大形新参衆に多く古参は
                  すくなく見候 大形新参者尾藤金左も新参にて御一言恭事承り被申打死被仕候咄三盛被申聞候 島原の
                  事書たるを見被申一人宛に心付見可被申候 其子孫多く候 皆々親に似たると似ぬと思様成事心にかけ
                  候へば拙者ごときの者の心付申儀に候 爰を以存候へば無事なる時にも人にうたがはれ申者不實故に
                  て候 何程利口に立廻り被召仕候も宜く候ても不實と諸侍に思はれ候事人間の大なる恥と存候へ共其
                  者は人はしらぬ誰も如斯などゝ昔今の同類申たて誰も如斯是も十人は九人申候 大形左様の者が自慢
                  にておれより上は有間敷と思ふ事も脇よりも心有者は見る事に候 扨其二三日過堀二郎右殿より呼に
                  参候故唯今中瀬助五郎居被申屋敷に其儘参候 ケ様々々と被仰付候 村井源兵衛・林兵助は今少以前に申
                  渡候へば両人被申候は皆共儀は當分居申所少も支不申候 傳右衛門儀は母も有之其上承申候へば此中
                  縁組も極め申様に承申候 左候へば両人より傳右衛門早く拝領仕度可存候間鬮におよび不申候 傳右
                  衛門追付可参候三ヶ所之内望次第に被拝領候様被申両人ともに被歸候 扨々仕合成事と被申どれか
                  と尋被申候故坪井牧丹右衛門上ケ屋と望致拝領候 其後次郎右殿御申候は右の様子達御耳候へ者然ら
                  ば此後兵助・源兵衛に被為拝領候屋敷者傳右衛門に被下候屋敷なるを可被下間能覺候へと兵助・源
                  兵被申たる事申上候へば 御意に叶たると見へ申候由被申候 其時分御小姓頭にて毎度出合候衆谷
                  右衛門・兼松七右衛門被申候者傳右今度拝領の屋敷は世上にて如形家も能候様に承候 近所にて候故咄
                  承候へば板敷も古く天井も奥むきは無之と承および候由被申候故いかにも仰の通に御座候へば私に
                  は過たると存候は私親は御存被成まじく御家中一番のすり切にて奥に天井も無御座しふ紙をはり申
                  所にて生れ申たる私故に親より者過ぎたると存候と神以申候へば扨々むさとしたる事と申笑ひ々々被
                  申候故おし返々々々申候て大笑に成申事今に致失念不申候 拙者はかりそめにも偽と申事別て嫌ひ餘
                  勢成咄もきらひ故老父すり切住居など少もかくし候事なく候 心には扨々人はしらぬと覺申候が實の時の
                  忠義思ひもよらぬ事とおかしく存候 各能心付可被申候 天道明らか成事是に付ても存出書つゝけ申候
                  一両年の内に山田調庵果候て山崎の屋敷筑後殿振廻候故座敷ぬり床奥には能き蔵も有之候 林兵助
                  に被下候 村井は佐田儀太夫と申先御代より代々勤新組にて勤申候 唯今跡は無之候 貮百五拾石か被下
                  御幼少より被召仕候人にて拙者にも懇比に被申候 其屋敷蔵奥なる程能座敷は源兵衛代に立申候 是を
                  望候て致拝領候 是皆拙者拝領の時きし取なしに拙者に譲申候天道明らか成故におのつから如斯致拝
                  領候 扨江戸へ参候て拙者に横次右衛門其時は堀次郎右殿組脇にて幼少より隣にて能く存候 拙者に申
                  候は林・村井拝領屋敷と拙者屋敷とは格別善悪替り申候と御次にても何も被申候 只今は尚以能屋敷候間
                  望申候はゝ調可申と拙者ためと存被申候 即座に御心入忝は候へ共拙者に被下候時分能屋敷とて被下
                  候 唯今は右より能屋敷候とて願申儀心に叶不申とて願不申候 かりそめにも慾かましき儀老父殊之外
                  嫌ひ申候事少しも忘不申皆老父蔭と存調置候
                   

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■「古今肥後見聞雑記」にみる五家荘(五ケ庄)のこと

2014-10-17 15:16:45 | 史料

                                  Go-Kanosho.jpg 歌川広重 六十余州名所図会【肥後・五ヶの庄】

 細川藩士・寺本直廉著による「古今肥後見聞雑記」から、五ケ庄(熊本県八代市)に関する記事の抜粋を御紹介する。
実はある方のリクエストに応えていろいろ調べている内に、この資料の存在を思い出し取り急ぎ読み下しをしたものである。
左座氏等についてはこの資料とは異なり、菅原道真の子孫であるとする説が有力であるが、その事をお含みおきお読みいただきたい。 

 

                        一、五ケ庄の事聞書左之通 天明二年十二月六日五ケ庄久連子の八郎
                                          兵衛と云老六十七歳咄覚書也

                          五ケ庄ハ八代郡の内にて五人の頭有て五ツに分ル 所謂雑座(左座)・仁田

                          尾・モミ木・椎原・久連子也 雑座ハ入口にして久連子ハ真の端也 雑

                          座領の口に境より久連子の端迄十五里程有て雑座の人家

                          より久連子の人家迄ハ八里程有り 其内所々に人家あれと

                          も山半ふくにて一所に家居なり難く所々に人家二三軒或ハ四五

                          軒又六七軒宛有て切々に住居す 人家至て多き所十四五軒

                          程有て雑座領分六里四方程有之由皆山谷にて平原

                          少し 當時雑座に居住の雑座中務親は大蔵といふ 當時

                          隠居にて七十余歳なり 此中務先祖ハ平知盛の二男知

                          時より続たる家系也 中務兄ハ周防といふ 是ハ前宅にて作な

                          と致居候由豊丸中務幼名兄なれとも下腹の子故跡に不立 又

                          外に兄あり合志郡弘生村緒方九郎兵衛方ニ参り裏の方

                          に家を建住居し子供ニ手習なと教居候 雑座久門といふも

                           兄弟なれとも故有て五ケ庄を追放せしと云 また藤崎

                          宮神護寺ニ居候圓宿坊といふも同兄弟ニ而下腹の子なり 右

                          大蔵子供都而十八人程有之由 右中務居宅す雑座の谷割

                          といふ所也

                        一、田尾と云所ハ當時緒方杢之進居住也 是は平家郎

                          等の家筋にて上総の五郎兵衛か家筋也

                        一、モミ木と云所ハ當時緒方金吾居住此家筋も平家の郎
                                   盛次
                          等越中次郎兵衛か子孫也と云

                        一、同椎原と云所は當時緒方蔵人居住是も平家郎等の

                          末にて飛弾四郎景家か末葉也と云

                        一、同久連子と云所ハ當時緒方美濃居住是ハ平の重盛の

                          三男清経の末葉也 此美濃親ハ大膳と云 當時勝手向宜
                 
                          敷ハ此美濃也 其次ハ仁田尾の杢之進方也と云傳ふ 平家没

                           落に及び右乃人々落下暫く豊後の緒方三郎か許に滞
    
                          留す此時緒方か娘とき姫を清経の妾として所々さまよひ日向國
                                    
                          耳川の邊より耳川といふ所ニ來り 夫より山賊強盗廿年

                          家の人々を伴ひ五ケ庄に連來と云傳ふ 右とき姫五ケ庄に連来り

                          今や山に墓有と云 五ケ庄に引籠候ハ文治元年三月下旬

                          也といふ 今に於て家傳の品あり 鎧チキレタリ 太刀長さ五尺斗り赤地ニ金ノ

                          蝶ヲ付タリ 此品々銘々の家に置すして三王社の地に小堂ヲ構

                          へ常に秘し封し入置と云々

                          三王社三月廿三日・廿四日祭といふ 右傳来之家宝の品々

                          祭の節と六月土用干の節にて入物の蓋を開く由

                        一、矢部の奥に屋敷か原と云所の口に宮あり 平ノ重盛の

                          墓と云て五ケ庄之者三月に参詣すと云へり

                        一、五ケ庄にてハ安徳天皇入海の日祭と云々

                        一、五ケ庄七十五軒は同氏の末流にて皆一家也といへり

                        一、五ケ庄に引籠る平家より今に至数十代の墓は皆山にあり

                          野石に銘を切て有といふ

                        一、眞宗菴二ケ所あり熊本順正寺末菴ナリ 庵 文字不知善應 正法菴

                        一、五ケ庄久連子ハ至而山奥也 熊本ゟ行程小川通廿四里程有之由

                        一、五ケ庄に引籠居候由世間へ相知候事は慶安四年に洪水出て

                          人家ヲ洗流し川下に流れ來るものを見て川上の山奥に人家

                          有事を知れりと云 川下より川上を志し山を傳ひ登りて五ケ

                          庄有ル事を知れりと云 此節迄五ケ庄よりたま/\人出ても彼所

                          を深く隠して不語故に人不知といへり

                        一、五ケ庄の山猪・鹿ハ勿論熊・狼珍 羊・山犬等多し 又鷲・雉多く

                          又ウワバミ間ニ出る 谷川にイダ・ハエノ類あり 鮎ハ不立といふ

                          人家に牛馬不飼 犬ハ多く飼置猫ハ不飼と云 食物粟・ひえ

                           とうきび様々の物あり 麦ハ出来す 平日の食物獣類を品々

                          食すと云

                        一、五ケ庄の山奥故か流行の病なし 又雪不強 雷之事ハ終に不

                          聞といふ


     天空の遺産「五家荘」 http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/r/s/A/sA4UYXiBTRlF20NuHk8T0YjW.pdf

 

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■「旦夕覺書」--風・6

2014-10-17 07:06:23 | 史料

                一、同名(堀内)弾蔵御用人に御加増にて被仰付候 其刻熊本にて拙者へ祝儀を被申心には少過きたると被存たる
                  様子に見及候處即座に返答仕候は如御結構に被仰付候て私共迄難有奉存候 併被仰付間教平八にて御
                  座候 其子細は太守様は格別御老中方への御目利にても平八事においては何として拙者程御存知可有様
                  に無之候 平八事に候へは幼少より能存候 惣躰親も御懇比に被召仕御加増も被下候得とも親よりは益
                  たる處多く候 其上相役中も前々より能存候 團之進(宮村)なとは貮千石迄被下候 先祖もさのみ皆共に替り不
                  申候 併是は兒姓達と申御家の宇右衛門(沢村)殿も御兒姓達と申傳候 然は唯今の御用人にて貮千石迄被下候
                  共さのみ相役にはおとり申間敷と存候 御家老役に被仰付候ても宇右衛門殿例有之候へは一萬石迄被
                  下は餘り珍敷事と不存候 神以返答仕候事唯今存出し書付見せ申候 弾蔵に御見せ可有候 笑ひ可申候心
                  底には多分拙者返答心に叶可申候 當世は同名か一門近きは必々ひけの事のみ十人は九人にて候 上下
                  共に侍りたる者の思様に如斯の事にさへ傍輩中我より上に被召仕候人に尚以遠慮仕候心にては中々其
                  身を捨勤申事は成兼可申候 しかれば忠義の程も當世なみと存候 

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■森田草平著「細川ガラシヤ夫人」

2014-10-16 10:34:29 | 書籍・読書

 最近、森田草平著「細川ガラシヤ夫人」(昭和25年2月20日発行・山川書店)をサイトで見つけて購入した。1,000円と格安である。
送られてきたものを読んでいると、最末尾に「上編おはり」とある。ここで下巻が存在するらしい(?)ことを知った。
「上編」ではガラシャ夫人はまだ三土野に在る。忠興がガラシャの事を思いながらの一段落である。
これは後を読まずばなるまいといろいろググって見たが、下巻は中々手に入れるのが難しそうだ。
Amazonに角川書店本が出ているがすごく高額である。

森田草平には全集があった。その第一巻に下巻らしいものが所載されているらしい。
           
                   第1巻 1956.7.10
 
                       細川ガラシヤ夫人……………………… 1
                       前篇………………………………………… 5
                       中篇(遺稿)…………………………… 200
                       *『細川ガラシヤ夫人』梗概……… 306
                       *細川ガラシヤの生涯…………… 314 

どうもこの書き方からすると、この小説は完成しないまま筆者は亡くなったのではないか・・・・。
日本の古本屋を検索しても出て来ない。頼みの綱は図書館だがこれとて休館中だし何ともしがたい。年を超す課題となった。 

ウィキペディアの記事を引用すると、森田について次のようにある。
夏目漱石の『草枕』に感銘を受け妻子を郷里に置いて上京、漱石の元へ足繁く通う傍ら与謝野鉄幹が主宰する閨秀文学講座で講師を務める。この講座に聴講生として通っていた平塚らいてうと関係を持ち、1908年(明治41年)に栃木県塩原で心中未遂事件を起こす。」
『草枕』に感銘を受けたというのが良いではないか。漱石に関する著作が多いようだが、ちょっと読んでみようかという気になっている。 

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■先祖附 魚住(右衛門兵衛)家

2014-10-16 08:26:06 | 先祖附

                                   IMG_1236.JPG

                             石垣原の戦いにおける魚住右衛門兵衛の働きについての黒田如水の感状の写真、
                             下の文面にある「」については「」や「」などと紹介する資料が見えるが間違いである。
                                                           東京在住のご子孫のご提供による。 


                                          

                                             一昨日之御働手柄
                                             之段松佐州 有四郎右
                                             御物語候 於拙者満
                                             足不過之候 今日爰
                                             元相済候 明日其地江
                                             参 面を以万々可
                                             申入候 恐々謹言
                                                    如水軒 書判
                                               九月十五日

                                                 魚住右衛門兵衛殿
                                                         参御宿所

       その働きについて綿考輯録は次のように記す。

             首一  魚住右衛門兵衛   同
     丹後にて被召出御知行三百石被下候、此節之御加増千七百石都合弐千石被仰付名を加賀と改被下、御鉄炮五十挺御預被成候、其後病死、
     其子与右衛門別禄三百石被下加賀果候以後弐百石御加増、於豊前病死、其子武右衛門当御国にて忠利君より新知百五十石被下候、今の
     辰之允祖也、加賀二子与兵衛休無様へ被成御附休無様より御知行三百石被下候、其子源右衛門与八郎様御供ニて御国へ罷越候処、光尚
     君より御知行三百石被下、今の源次兵衛祖なり、右与右衛門二男市郎右衛門有馬御陳にも罷越候、御帰陳の上御中小姓与ニ被召加、貞享
     二年新知二百石被下、今の市大夫祖なり

       

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                                           先祖附

                                私先祖魚住右衛門兵衛儀
                                三齋様御代於丹後國被召出御知行三百石被為
                                拝領御奉公相勤申候 慶長五年九月十三日於豊
                                後國石垣原を大友左兵衛督義統合戦之時討取義
                                統之家士依其働御加増千七百石被為拝領都合弐
                                千石ニ被仰付名を加賀と御改被下御鉄炮五十挺被成

 

                                 御預候 右働之節黒田如水公より御感状被下候 其後於豊
                                前病死仕候
                               一魚住久兵衛儀加賀嫡子ニ而御座候 如何様之■趣有之候哉
                                御國立退申候
                               一魚住與左衛門儀加賀二男ニ而御座候
                                三齋様御代別禄三百石被下置加賀果候後為御加増
                                弐百石被為拝領都合五百石ニ被仰付御奉公相勤居
                                申候処於豊前國病死仕候
                               一魚住杢之丞儀與右衛門嫡子ニ而御座候処早生仕候
                               一魚住武左衛門儀與右衛門二男ニ而御座候
                                妙解院様御代於當御國新知百五拾石被為拝領御番
                                方被仰付候 天草御城番数度相勤江戸御留守居詰壱度
                                相勤候 罷下南関御番相勤申候処病身ニ罷成申候ニ付
                                御奉公御断奉願候処願之通隠居被仰付候

 

                               一魚住又助儀武左衛門嫡子ニ而御座候
                                妙應様御代武左衛門家督百五拾石無相違被為拝領
                                御番方被仰付候 宇土郡赤瀬浦御番其外組並之
                                御奉公相勤申延寶五年十一月御小姓組被仰付江戸御供
                                被仰付相勤申候 大御番■御番御目附壱度相勤
                                申し
                                天和元年新組被仰付貞享四年十二月高五拾石之
                                御役料被為拝領元禄八年迄江戸定御供七度
                                相勤申候 御紋付之御上下御小袖御帷子御羽織等度々
                                被為拝領候 同年十一月御歩頭被仰付同十三年江戸
                                御供被仰付相勤申候内同年七月
                                與一郎様御逝去御國元江之御使者被仰付相勤罷登
                                御下國之節御供仕罷下申候 寶永元年正月御鉄
                                炮拾挺頭被仰付同年江戸江被召寄相勤同四年罷下
                                申候 正徳三年九月御鉄炮弐拾挺頭被仰付相勤居
                                申候処
                                病身ニ罷成申候ニ付享保四年五月御役御断奉願候処
                                同月病死仕候

                                             (以下略)

 

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■県立美術館→伝統工芸館

2014-10-15 17:24:49 | 徒然

 台風一過の熊本は見事な秋晴れの天気となった。午前中、県立美術館に出掛け「信長からの手紙」展+細川コレクション常設展示を1時間40分程かけて、沢山の重要文化財をふくむ80点ほどを展観する。11月22日には東大史料編纂所准教授の金子拓先生の講演会があるから再度出かける予定である。其時に購入しようと思っていた図録も購入した。松井山城預櫓あとの石垣や、住江門が設けられていた虎口周辺も眺めて写真撮影。
昼食後は、熊本県立伝統工芸館に廻り、富重写真館の古い写真展をみる。
つごう3時間半ほどを歩き廻り、足がぱんぱんになってしまった。(朝散歩を加えると4時間以上である)

馬具櫓や田子櫓も公開されている内には拝見しようと思いながら横目に眺めながら帰途に就いた。 

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■「北村甚太郎覚書」釈文--25・26・27了

2014-10-15 06:49:46 | 先祖附

                          ひ城を渡し可申由御詫言申尓付城を御受取被成候縫殿助

                          儀は大将分尓て田邊の御城を責申尓付切腹被仰付候なり

                          一、丹後田邊城攻寄手衆

                          小野木縫殿助  石川備後守  谷出羽守   川勝右兵衛

                          藤懸三河守   長谷川鍋   高田河内守  毛利勘八

                          早川主馬    中川修理   竹中源助   杉原法規守

                          別所豊前守   小出大和守  赤松左兵衛  山崎左馬助

                          木下右衛門太夫 源仁法印   生駒雅楽頭  御使番二人

                             惣人数壱萬五千余
                                   本ノママ
                        一、田辺御籠城の印

                          寺井吉右衛門   荒木善兵衛    日置善兵衛    丸山助左衛門

                          加藤新助     大塚源次     松山権兵衛    佐野三之允

                          加納曲斎     麻生喜左衛門   神戸喜右衛門   坂井半助

                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                          寺井道運     村野庄助     久代右近右衛門  大野源十郎

                          築山五右衛門   上羽小右衛門   山本三郎右衛門  矢野七助

                          中村甚左衛門   上原甚七     上林助兵衛    上羽新兵衛

                          岡本新兵衛    三戸屋四兵衛   北村石見     宮部市左衛門

                          北村甚太郎    入江淡路     北村勘三郎    前田七郎右衛門
                           宮村出雲と改名  
                                      箕田甚之允
                                                 不分明二カ三カ也
                          右は絵図之表各付有之面々合三十 ○ 人

                                  外尓 嶺山衆各   宮津衆各

                        一、忠興公籠城之衆へ被遣候御書之写

                             時廿日亀山迄今着候処尓城可相渡由尓候へ共徳善院事

                             尓候間可成程馳走可申と様子内府へ申入候其御返事次第

                             可下無候扨々二度逢候ハん事爰とのミ思ふ事尓て面々

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                             籠城さへ寄持と存候尓かゑきそものよし無比類尓

                             けおち候やつはら餘りの事尓にくけなくおかしく

                             候恐々謹言

                                  九月廿一日       越忠興

                                     
宮津にて
                                        籠城之衆中

             
                    昭和九年八月十九日一夲を以て校合シ了ル 上妻博之記

                                         (了)

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■熊本の本「氷筍」

2014-10-14 20:45:03 | 熊本
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■「旦夕覺書」--風・5

2014-10-14 17:46:47 | 史料

              一、右の井田太郎兵衛に或時色々申内に拙者申候は皆人に御聞の通立身加増被下候 位も能く被仰付候事
                 に拙者心にひきくらへ覺申候 新知被下候時分は夫程にも不存候 少御加増被下候て却て拙者心は本
                 よりわろく成申かと覺申し候 子細は年もより御存知のことく妻子も有之候へはちと身をかほひ申心出
                 來十左衛門殿御前にても昔のことく思ふ事不残御咄申す事十か七八は控申御尤毎度々々口が過候とて
                 御叱り被成此比は此方より控申事のみと申候へは日本の神以井田も聖文にて拙者側により扨も々々
                 拙者は有様成御詞憚なから奉感候 如御存知十左衛門方へ御家中歴々上下共に御出御用は格別常之御
                 咄ンいて候へは毎度次の間に罷在承申候 近比も御加増御拝領是は御存知のことく向の津川殿代々心安
                 く夫故十左衛門方へも御出被成私へも御懇比に御申候 つく々々存候へは御奉公人は前より乍慮外お
                 とり申と存候と咄候へは其名は書不申候 是にて一言にても不實成事けいはく成る言葉は家来々々皆人
                 にて上下なく實にて候へは恥かしき事にも十左衛門殿・舎人殿如形御心安他人にて拙者程心安く御申
                 候事身にも覺申候へとも一言にて其人の心知れ申候 在宅仕廿年に成申候熊本に居候時分山名殿・大木
                 殿へ出入仕候時分家来中の為に能事は折々申たる儀は覺申候 拙者身の上能き事けいはく成事一言も
                 不申と覺悟仕候故在宅へ引込候時も前々のことく家来共にも逢申間敷候 さて共打寄候て皆々咄申時
                 拙者事存出し可申候 恥ケ敷存候儀一ツも無之と存候 唯今も其通定て皆々果可申と存候 前かと舎人殿
                 なと御家老に被仰付候時の事堀次郎右殿・上田新兵衛殿なとゝ其比立身御取立候衆の批判有之候 打寄
                 々々咄申候 其時にも能働候故夫々に又立身御加増被下候へ共其人は前よりは悪敷成候と申候へは舎
                 人殿は何と舎人程能成りたる者はなきかと次郎右殿被申候 拙者申候は扨々夫故に御家老役被仰付候
                 諸人に勝れたる事しれ申と申候へは是は尤々々々と新兵衛殿一座にて御申候事も失念仕候
                  

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■「北村甚太郎覚書」を読む--27・了

2014-10-14 06:49:34 | 史料
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■「北村甚太郎覚書」を読む--26

2014-10-14 06:49:14 | 史料
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■「北村甚太郎覚書」を読む--25

2014-10-14 06:48:15 | 史料
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