今日は熊本市立図書館に出かける予定にしているが、現在雨が降っていてサイクリングがてらでは微妙な状況である。
昨日、市立図書館には「五野保萬日記」の原本があると思い検索してみると、刊本の案内が出てきた。原本ではなかったのか ??
ふと、刊本であれば「日本の古本屋」で見つかるかもしれないと思い検索すると・・・・あった。
五野保萬日記 第一輯〔明治十年丁丑日記〕 を注文、思いがけないことであった。
ひとつ気になるのが 「第一輯」とあるところ、相当膨大な資料だと聞いたが第二・第三があるのだろうか。
ともあれ第一輯だけでも座右におくことが出来て心躍っている。
この本にはなかなかお目にかかれませんよ?さていくらまで上がりますことやら・・・
過去の史談会の資料や、講師を招いての講和やその方の著書などから、登場人物の正体が明らかになったり、又うちの先祖ですとか、この人の子孫が近所に住んでいるとか、ここの所話題沸騰状態である。
この様な資料の影響力の大きさに驚くとともに、勢い詳しく調べようという事になり、毎日多忙である。
ところが私が所持している史料では調べ事には限界があり、熊本県立図書館の閉館状態がなんとも歯がゆくてならない。
時代も天草島原の乱の頃から幕末までと広範であり、少々いらいらが募っている。
県立図書館がダメなら、熊本市立図書館で可能なものを調べようと思っているが、刊本に限られてしまう。
今日は午後から強い雨が予想されている。明日はどうやら上がりそうなので、ひさびさサイクリングを兼ねて出かけようかと思っている。
熊本市立図書館で閲覧するのは数年ぶりになるなー
6時過ぎに起床してPCを開くと「阿蘇山噴火」の文字が目に飛び込んできた。TVをつけると番組の隅にテロップが流れている。
噴煙が11,000メートル以上成層圏まで上がったと報じているから、少々驚いたところだが、時間がたつにつれて降灰をかぶった自動車の映像などが流れている。
幸いなことに風が北東方向に吹いていて、熊本市内からすると逆方向でそれこそ成層圏の偏西風にのって中国地方・関西方向に流れている。
熊本・大分の近隣地方は高原野菜の産地、少なからず被害が出る事だろう。
まさに熊本のシンボルである熊本城と阿蘇山が、自然の脅威のまっただ中にある。
熊本地震からあと数日で半年になり、余震も数をへらして終息まじかを思わせていたが、今回の噴火で大嘆息である。
自然の営みの前にあっては、まったくなすすべはない。ただ被害のすくなからんことを願うばかりである。
細川家墓所、修復遠く 庭園エリアは無料開放 2016年10月07日 熊本日日新聞から
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公園は、初代熊本藩主忠利公の菩提[ぼだい]寺「妙解寺[みょうげじ]」跡地で約4万3千平方メートル。1955年に市が細川家から譲り受け、公園として整備した。園内には、忠利公らをまつる三霊廟を中心に歴代藩主らの墓25基や石灯籠約160基などが並ぶ。震災で、三霊廟入り口の唐門(高さ約5メートル、幅約3メートル)が倒壊。墓や石灯籠も、ほぼすべてに転倒やずれが生じ、江戸後期とみられる妙解橋の欄干も崩落した。
修復は手付かずの状態で、崩壊した唐門一帯はビニールシートで覆われていた。霊廟の南にある重賢公の墓は、上部の石材が転げ落ちたままになっている。「唐門は江戸前期に建てられたが、過去の災害で倒壊した記録はない」と市文化振興課。崩れた部材を組み立て直し、修復する。来年度から本格的な工事に着手し、2019年度に完了予定。復旧費は2億8千万円を見込む。(高橋俊啓)
熊本藩士・木村鉄太が、小栗上野介の従者としてポーハタン号で米国を訪ねた記録である「航米記」が、昭和49年に発刊されたいきさつは、同書に附録されている「出版ニュース」その他の挿し込みのパンフレットなどで知ることが出来る。
昭和46年7月出版社・青潮社社長高野和人氏により発見され、昭和49年3月氏の手により出版された。当時の地元新聞報道などでも大々的に報道され、熊本の人々に驚きをもって迎えられた。
但し49年版は鉄太の筆跡そのままに発刊され、仮名文字書きである。また諸々に鉄太の筆による見事な絵がちりばめられている。
この本の内容もさることながら、「出版ニュース」や差し込みのパンフを見ると、この時代の識者の興奮ぶりが良くうかがえる。
以下は熊本大学教授・松本雅明先生の寄稿文である。
仮名文字書きの鉄太の筆跡がそのままで構成されているが、これが読もうとすると結構難儀である。
その後この著は現代文に訳されて新たな形で発刊されているが、今では日本の古本屋でも購入が難しい希少本となった。
もっともAmazonでは数冊見受けられるが一万円近い値がついている。
暑さで寝ぐるしくて窓を開け放していたが全く風がない。それでも6時ころから風が出て突然雨も降りだした。慌てて窓を閉めるとなんとも蒸し暑い。
半分ばかり開けていたベランダ側の窓から、突然強烈な風が一陣、床に積み上げていた資料が部屋中に散乱してしまった。あっという間の出来事だった。
あわててかき集めるが、M家の先祖附がバラバラ、頁数をうってないのでまずはかき集めてクリップする。
まるで読み下しの作業のような状態で20数枚の先祖附を並び替えていくが、簡単には終われそうにない。台風被害第一号と相なった。
熊本からは250キロほど離れていると思うが、台風は長崎の北の海上を日本海に進んでいる。
昼過ぎ以降風も強くなりそうなので、朝食後のひと仕事は台風被害第二号とならないよう、ベランダの観葉植物が痛まないように何とかしなければならない。
先祖附はその後ゆっくり片づけることにしよう。
細川家には二流の郡家がある。
一つは(1)幽齋の兄・三淵藤英のながれ、もう一つは(2)細川家にとっては喧嘩仇の上野大和守秀政(養子 将軍義昭臣・堀孫八郎)系の郡家である。
いずれも郡主馬宗保に関わりを持つ両家である。
(1)の郡家の先祖附は歴代の先祖を三渕掃部頭・伊賀守晴員、大和守藤英(細川藤孝・幽斎実兄)、弥四郎秋豪、伯耆守藤利、縫殿助(藤利嫡男)、弥四郎藤正(藤利二男 入道形庵)と記す。
藤正は「忠利代豊前に召寄られ、其後徳川秀忠直参五百俵 綱利代召出され寛文六年江戸にて五十人扶持 翌七年肥後下国 元禄七年七月十八日歿・八十五歳」(肥後藩・主要系図に依る・以下同)であり、その嫡子・夷則、氏政(源五左衛門 則入)を細川家家臣・郡家初代としている。
細川幽齋の実家・三淵家に連なる名家で家老を輩出している。しかしながら郡という名跡は、忠興の側室松の丸(藤)の父・郡主馬宗保からきていることは明らかである。又、藤の妹・慶寿院が秋豪の次弟・光行室であり、その子藤利が嫡家を継いだ。忠興の愛妾・藤の実家郡家はこうして細川家に名を残している。
+--三渕藤英---+--秋豪===藤利-------+---尚正・・・・・・・・・・・→徳川家臣・三淵家
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| | +---藤正---氏正正・・・・・・・→細川家臣・郡 家
| +--光行
| ∥-----藤利
| 郡宗保---+---慶寿院
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| +---藤・松の丸(松井興長室・古保生母)
| ∥
+---細川幽齋-----忠興---忠利
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+---三淵伊賀守好重 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家臣・三淵家
(2)の郡家は(1)の郡家とはまったく血縁はない。細川家にとってはまさに喧嘩仇の将軍義昭の寵臣・上野大和守秀政がその祖である。
「上野は当家に対して敵なれは、家号を改めよと被仰、郡主馬名字をあたへ郡勘右衛門と名乗候なり 」とある。
足利義昭
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+---上野清信---+--●
| | 堀孫四郎
+------● +==大和守秀政
∥ ∥------------------郡勘右衛門門・・・・・・・・→細川家家臣・郡(勘右衛門)家
槙嶋玄蕃頭昭光(云庵)---●
◇棟方志功の装丁本◎細川ガラシャ☆小山寛二▽上下2冊初版昭35
熊本県八代出身の作家・小山寛二の著作「細川ガラシャ」の装幀は棟方志功である。
発行が昭和35年9月なのだが、すでに板画家として世界に名を成していた棟方志功の装幀だから恐れ入る。
作家・装幀家の組み合わせが何とも魅力的である。 (只今1,000円 応札者なし あと二日)私は持ってますから応札致しません・・・・・・
ご厚誼をいただいているA先生から、高槻市立しろあと歴史館で開かれた「郡主馬」に関する展覧会パンフや講演会のレジュメ その他いろいろお送りいただいた。厚くお礼申し上げる。
この郡主馬(宗保)は、細川忠興の側室松ノ丸(藤)の父親である。その女が「古保」家老・松井興長夫人である。
この藤については、ガラシャ夫人が最後に臨み「此上にいはれさる事なから藤を御上へ御直し不被成様ニとの事なり」(藤を後室に迎えないでほしい)と遺言している。
細川幽齋の兄・三淵藤英の流れに「郡家」があるが、ここにまさしく郡主馬の血と名跡が継承されている。
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高槻市立しろあと歴史館第33回企画展「北摂の豊臣武将 郡主馬(こおりしゅめ)-大坂の陣と高槻-
開催期間:2016年7月16日~9月4日
高槻市立しろあと歴史館で第33回企画展として、「北摂の豊臣武将郡主馬-大坂の陣と高槻-」が開催されます。
郡主馬(こおり・しゅめ)は、名を宗保といい、茨木市の郡に拠点を置いた武士の一族です。
豊臣家の家臣であった主馬は、大坂冬の陣で旗奉行として真田丸の近くに布陣し、徳川家康との会見にも赴いたともいわれます。
夏の陣では燃え落ちる大坂城内で切腹し、豊臣家と運命をともにしました。
一方の徳川方には、後の高槻城主となる永井直清の初陣姿があり、やがて徳川幕府の一翼を担っていきます。
郡主馬の一族や大坂の陣に関する古文書や絵図、武具などが展覧され、高槻と大坂の陣の関係にも触れながら、時代の狭間を生きた北摂ゆかりの豊臣武将・郡主馬の生き様に迫ります。
ヤフオク出品時の写真
10月1日のヤフオクで落札したもので、当然のことながらまだ手元には届いていません。
切支丹宗門改に対する「覚」とありますが、誓約書みたいなものでしょう。
この宮村益太という人物は、「盤桓随筆」「吹寄与勢」「雑撰録」「藻塩草」などの膨大な書写記録を残した宮村典太の四代前の人です。
覚
切支丹宗門之儀従前々無懈怠今以相改候
公儀致 仰出候御法度之趣奉得
其意候弥以私家内末々男女ニ置迄堅相改
申候處不審儀者無御座候尤觸状判形
取置申候若相替儀御座候者急度可申上候
為其如斯御座候以上
文化丁夘年五月 宮村益太(花押)
長岡右馬助殿
松本寿三郎先生監修の「熊本藩侍帳集成」に「十二組名附帳」がある。文政四年十月朔日附で番方十二組の531名の名前が組毎に記載されている。
一番・尾藤多賀丞組以下、牧新五組、宮村典太組、木下平馬組、志水久馬助組・續繁也組、朽木内匠組、遠坂関内組、齋藤勘介組、有吉清九郎組、松下清蔵組、西山大衛組などである。
これ以外にここには含まれない、あと4~500名くらい(?)の藩士が居ることになる。
この侍帳の特徴は家禄・氏名の下にどこに在宅しているかが書かれていることである。
在宅とはかって■在宅という記事を書いたからご参照いただきたい。500石以下の家士が生活再建のために地方で生活することを言う。
原則侍は遠隔地に勤務する者を除き府中で暮らすのが原則である。
その数が193名 有るというのが驚きである。好きで地方で生活しているわけではない。この数字を見ると藩財政が困窮の中にあることがよくわかる。
只今「新・細川藩侍帳」に反映中である。