これは森鴎外が所持していたとされる「忠興公御以来御三代殉死之面々」である。東京大学総合図書館の「鴎外文庫」所蔵である。
表紙には「細川家殉死録 襌」とある。これらの史料から「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」などの一連の小説が上梓された。
先の熊本史談会では、「興津弥五右衛門の遺書と興津一族」を取り上げた。
森鴎外は明治天皇の大喪礼に参列、その後乃木希典将軍の殉死の報に驚き、わずか五日間で「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」を書き上げている。
翁草・徳川実記・野史などを参考にして初稿を書いているが、史実にそぐわない間違いが多くみられる。
その後この「忠興公御以来御三代殉死之面々」や「興津又二郎覺書冩」「興津家先祖附」を手に入れて書き改め改稿としている。
誤植も含めてこれも間違いが多い。
私事で申訳けないが、ここに蓑田平七の介錯役として出ている磯部長五郎が我が家の家祖の兄にあたる人である。
この小説を読みわが先祖の事が書かれているのは衝撃であり、私の今日の歴史狂いの一因になったことは間違いない。
先般「歴史秘話ヒストリー」で「財津和夫氏」が紹介されたが、NHKから協力依頼がありささやかながらお手伝いをした。
財津家の縁戚に平川家があり、いろいろ史料を探す中で、「平川家資料」を見つけだした。
ところがこれは財津家とはまったく関わりのない別のお宅であった。資料を眺めるうちに、身体が震えるような大発見に至った。
紹介されている系図に「磯部長五郎」や、わが遠祖「磯部庄左衛門」の名前があったのだ。
平川家も我が家と祖を同じくする一族だった。
その後史談会の若き友人N君によって、いろいろな情報がもたらされて、現在活字化しているわが家の先祖附の「注」が大変充実したものになってきた。
「財前家」に関し提供した資料は使われることはなかったが、間接的には少々為にはなったかと思っている。
このことがなければ「平川家資料」にも遭遇しなかったわけで、NHK様々という次第である。
宇土支藩藩主・立禮に宛てた老中・阿部豊後守正允の書状がヤフオクに出品されていた。
商品説明では「 十代将軍徳川家治の時代の書状で、豊後守阿部正充(允)が亡くなる1780年の前年1779年のものと思われます。海鼠(なまこ)のお礼等が書かれています。」とある。
1779年は安永八年、立禮は天明七年(1787)に本家を相続して齊茲となるがその九年前の書状である。
細川幽齋女・加賀は豊臣秀吉室高台院の甥・木下右近太夫延俊に嫁ぎ三人の女子を生した。(継嗣は側室の子)
高台院から随分可愛がられたという。
於岩は 松平忠重(上総佐貫→駿河田中→遠江掛川藩主)室、於豊は 本家・木下利當(備中足守藩主)室、於栗は梅松院室となった。
於岩が嫁いだ松平忠重を調べていたら数代下って、又細川家に繋がっていることに気づいた。
+---加藤明尭(水口藩主)
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忠重---忠俱(遠江掛川→信濃飯山藩主)→忠喬(信濃飯山→遠江掛川→尼崎藩主)→忠名(尼崎藩主)---+--忠告(尼崎藩主)
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+---土井利厚(老中・古川藩主)---栄昌院
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細川立之(宇土藩主)・・・立政(齊護)
細川立之は宇土細川藩の八代藩主である。父は立禮、義兄である本家九代藩主・治年の跡をうけて十代齊茲となった。
その為わずか四歳で宇土細川藩の藩主となった。享和二年老中土井利厚女・福姫(栄昌院)と結婚した。木下岩姫から五代目の孫である。
細川本家十代齊樹の病が重篤になり、立之の嫡男立政が養子として宗家を継承した。十一代・齊護である。
この立政が本家相続するに当たり、生母・栄昌院が立政に送った書簡がある。「齊護公へ御教訓の書」とも呼ばれるものである。
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このたび存じがけなく龍之口ご相続の儀、まことに御身においてこの上もなき御誉、この身迄も面目これにまさり候こと無く候 ついては御心得の端にもと及ばずながら書き付け候 第一御身もち正しく人々に情深く公の御勤め怠りなく、御家ご大切にご家風みだれざるよう御政道能々お心かけられ、大小のこと共御家来中衆議をお聞置き得中、ご勘弁の上にて取り行われ万事ご一存にて無きようお心がけらるべく候 ご家来中多く候えば万事御心くばりのこと共に候わんか、いかようにお心を労され候でも御落度なきよう能々お心得ありたく候 御大国の御あるじとなり候ことは容易なきことにてはなく候あいだ、よくよくご思慮ありたく候
まさに日々のおこないには毎朝ご神拝の後、ご先祖様のご拝礼一日も怠りなくご養父様は御存生の如く何ごとも置かせあそばされ候ことは当分そのままに御改めなく随分ご大切にあそばされ候と人々も存じ候様になされ、何ぞのかど目にはまづご吹聴仰せあげられ候ようにありたく候 自然ござ候はぬお方はついつい御礼儀も疎かになり候ようのこともありがちなるものゆえ、能々ご失念無くお仏参りなどは尚更御怠りなきようにと存じ候 御暇々にはご学問お心にかけられ弓馬諸芸ともにご出精なされ、ご家中の励みにもあいなり候ようにと思召しにてご自身ご出精第一に候 御前様へは能々朝夕になにくれとこまやかにお心をつけられますよう、このところはこれまでも私へ御仕え候もこまやかに候へば安心に候 お上にはことのほかご孝心に居られそうろうだん承り及び候へば、尚さらその心にて万事ご孝行を尽くさるべく候 奥方様おいでの後はことさらに奥向最初よりよく取締り、乱りがわしきことども随分御慎みなされ、自然召遣いの人などでき候とも常々も申し候とおり我ままにならぬよう姑より能くお仕置き候よう、家風など乱れ候は兎角寵愛の過ぎ候より起り候 唐土にも大和にも昔より様々のためし有り候ことに候ゆえ、このところ能々わきまえ召遣われ候よう専一に存じ候 若きうちは随分と慎み深き人も年積りて却つて心緩み我儘募り身持悪しくなり候も間々あり候 なにごとも自然と御心にまかせ候節にいたり、御慎み肝要に候 無益の御驕りなど無く候ようなに事もこの方にて是まで種々心苦致され質素に暮しおり候を、かつてお忘れなく身に不足なときには昔のことはついつい忘れ候ままくれぐれも元を忘れぬよう朝暮お心にかけられ、だいたいお家のためご大切にたることをしばしば思召し忘れず候よう、第一にお心かけらるべく候 このたび加様に御めかねにて御譲りなされ候御家ご大切たることは幾度も申し候如く起臥にもお忘れあるまじくと存じ候 泰崇院様遠行ののちは別して此方家来共々入に心を砕き、丹精をこらし勤めまいらせ候人々のことをも思召しだされてしかるべく候 これ迄も孝心深くかねがね家居をさへ一つに住居候ようにとまで思召され候お心差し恭くとも嬉くとも言葉なく、さばかりのお志を頼みにてかかることとも書記しるし候 必ず別れ候てもその志空しからず候は、このしるし候こととも能々御守りたまわり、万事御身を慎み永く人々の尊敬したてまつり候ように御取治め下され候は、いかばかりの喜び、且は此方御先祖様・泰崇院様・寛敬院様までも御誉たるべく候 まことにかい無き心にてただただ心りに候へば、存じ候方端をだにとしるしつけ候まま、対面と思召しこの書折々ご覧賜り候べく候 御身養生専一に候へばこれ迄のとおり灸治等をも役目にて御すえなさるべく候 すすめ候人無きちきは怠り申すべく候 何くれを案しられ候あまりに、かかる事迄書き付け候も心のやみにて候 お許し賜るべく候 あなかしこ
中務少輔殿 栄昌院
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立政は文政九年三月二十九日本家相続を命ぜらる。同四月十八日越中守と改む(23歳)
尚、栄昌院は立之の嫡男・雅之進(のち慶前)が、天保五年正月本家に入るまで(当時10歳)、その養育に尽力した。宇土細川家は栄昌院の二男・行芬が襲封した。
この文章は細川護煕夫人佳代子様が講演等でよくお話になるとお聞きする。護煕様に栄昌院様の血が流れていることは紛れもない処である。
本震から6ヶ月の今朝も阿蘇地方で余震があったらしい。熊本地方は昨日は都合7回の余震があった。
地元熊本ではメディアが盛んに特集を組んで本震から6ヶ月の現状を伝えている。
公的解体が進まず、倒壊した建物は6ヶ月前そのままの姿をさらしている。
山や田畑、道路、人家の中に人を飲み込むような活断層の亀裂がはしり、その場所での生活再建を躊躇させている。
かって穏やかで豊かな人間関係が営まれていたコミュニティに対する人々の愛着は今でも変わりはないが、この自然の脅威の中に身を置くとその気持ちをも打ち砕きつつあるようだ。
高層マンションに住まい、近代的な生活をおう歌していた人たちが強烈な揺れを経験、多大な被害をうけて住まいを離れつつある。
避難階段を下りるのに体力の限界を感じ、地上に降りても近隣の人たちとの日頃のコミュニケーションがなく右往左往し、車は人様の車のために出すことが出来ず、ただ街中を家族四人為すすべを知らずさ迷い歩いたという知人がいる。
これは熊本地震のみの現象ではなく、今後発生するかもしれぬ大地震の教訓としなければならないことである。
わが身を守り、家族を守るために防災意識を高め、準備や避難行動の予行など用意おさおさ怠りなくすることが大事である。
あしたとは言わず、今すぐにも全国津々浦々で起こりうる話である。
今日は史談会の10月例会、会場は熊本市民会館、会場近くまで歩をすすめると黒いスーツの正装の人が多く見受けられる。
地震発生から六か月、今日は熊本市慰霊祭が同じ会場で開かれるらしく、国会議員の先生以下熊本の名士の方々がご出席らしい。
わが史談会を始めた途端、地震がぐらり「今のは3位有りましたな~」と声が上がる。
処がその後もたびたびの揺れがあり、慰霊祭出席の皆さんもさぞかし驚かれたことだろう。
09時38分頃 | 熊本県熊本地方 | M3.2 | 震度3 |
09時41分頃 | 熊本県熊本地方 | M2.0 | 震度1 |
09時44分頃 | 熊本県熊本地方 | M1.7 | 震度1 |
10時34分頃 | 熊本県熊本地方 | M2.3 | 震度2 |
11時25分頃 | 熊本県熊本地方 | M2.6 | 震度2 |
お互い無事終了して外に出ると、熊本城の悲惨な姿が目の前、いきおい石垣は大丈夫かと目がいってしまう。
村上春樹氏は今年も賞を逃したが 、まさかボブディランがノーベル文学賞を受賞するなど、万人に一人もいなかったろう。
大変衝撃的な出来事であった。
若いころは「風に吹かれて」の英語歌詞を諳んじていたのだが、今となると全く駄目である。
かって「平凡」とか「明星」とかいう雑誌が有って、附録に英語歌詞つき・楽譜が小冊子で付いていたことがあった。
歌詞の内容も良く理解しないまま、ラジオから流れる曲に耳を傾けてメロディーと英語歌詞を覚えたものだ。
英和辞典を片手に和訳にチャレンジしたこともあったが、ノーベル文学賞に至る深い意味合いを理解するには程遠いものであった。
ピータ・ポール&マリー バージョンも好ましいものだった。
ピータ・ポール&マリー https://www.youtube.com/watch?v=iuKJoOfeL7E
歌詞 http://utaten.com/lyric/Bob+Dylan/Blowin%27+In+The+Wind/#sort=popular_sort_asc
ボブディラン https://www.youtube.com/watch?v=7GDqvnGai50
考えてみると半世紀前のことである。わが青春まっただ中といっていい時期で、曲とともにいろんなことを思い出させる。
1歳年上のお兄さんだが、心を込めて祝福したい。そしていつまでも元気で活躍してほしいと思う。
熊本地震前震から今日で半年、秋風に吹かれながら口ずさむには格好の曲のように思える。
この地図がいつ頃作られたあものなのかよく判らないが、熊本府中を通る街道筋が示されている。(朱線)
興味あるのは薩摩藩の人たちが通ったであろう街道の道筋が示されたいる。
左下薩摩街道と示されたところから長六橋を渡り、鍛冶屋町通りから新三丁目橋をわたり、三丁目御門から新町に入った。
通常はここから城内に入り二の丸から出て京町筋へ抜けるのだが、これを避けてコースをかえ、段山(だにやま)を大きく迂回して杉塘(すぎども)へ出、砂薬師坂を登り現在の細川刑部邸(二の丸御屋敷)の前百閒石垣の下の通りから京町へ出ている。
薩摩藩にとっては熊本城内を抜けるという事はとても受け入れられるものではないし、島津家にとっては参勤・帰国での熊本通過は、頭の痛いことであったろう。
一枚の絵図が伝える情景が目に浮かぶ。
朝から15日の史談会の資料準備で大量のコピーをとる作業で忙しい。
血圧が高いから時折立くらみなどしていたら、先ほどは16時まえに地震(震度3)がぐらり・・・勘弁してほしいな~。
思わず椅子に座り込んでしまった。朝8時過ぎに震度2もあったらしいが、これには気づかなかった。
先ごろ4月14日以来の震度1以上の地震の回数が4,082回と修正された。どうやら同じ時間にいくつもの地震が発生していたにも関わらず、1回とカウントしていたらしい。
単純計算で一日22回程地震が起きていることになる。聞いたばかりで血圧が上がる。
気象庁のデータをみると今日16時前の地震も57分に震度3、59分に震度1といった具合である。
すっかり落ち込んで資料準備作業も小休止、あと二日あるから何とかなるだろう。
長岡監物(是容) 嘉永六年 米国軍艦渡来 御行列人数附 巻物
このような凄い史料が表れました。一応応札してみようと思いますが、それぞれ随分高値になることでしょうね。
図書館・博物館などで所蔵されるべき品物だと思いますが・・・・・・・・
先に■昭和49年初版「航米記」を読む を書いた処、同時期の航欧記である「文久航海記」があることをAA様からご紹介いただいた。
そしてこの本の原作者ともいうべき人(著者は孫)が三宅秀(東大医学部の初代学部長) であり、その先祖をさかのぼると三宅藤右衛門重元の子孫であるとのご教示であった。
この「文久航海記」をググっていたところ、あのスフィンクスをバックに居並ぶサムライの写真があった。
私は「維新前夜―スフィンクスと34人のサムライ」という本を持っているが、それがこの写真の本である。
そしてスフィンクスの肩のあたりに登っているのがほかならぬ三宅秀(ひいず)なのだそうである。
(ご連絡を頂いてからまだ荷が開かれていない段ボール箱を開いて探しているが、未だ発見にいたっていない。)
「文久航海記」については「日本の古本屋」から早速購入の手続きを取った。
処でこの三宅秀は次のような関係で三宅一族であることが判明した 。
細川忠興
‖
明智光秀---+--ガラシャ
|
+---女
‖
出雲---弥平次(明智左馬助)---藤兵衛---+--藤右衛門---+--藤兵衛---・・・・・・・・・・・・(細川家家臣・三宅平太郎家)
| |
| +--伊兵衛---+---重安
| |
| +---女
| |
| +---女
| 島原住三宅姓 ‖
| 休庵---元哉---+---玄碩---英庵---艮斎--秀
+---徳助重信 | (休庵は三宅猪兵衛娘婿 2020:4:24修正
| +---文泰 AA様のご教示による)
+---加右衛門重豊
|
+---新兵衛重行---新兵衛---九郎兵衛重房---権兵衛--・・・・・(細川家家臣・三宅新十郎家)
|
+---庄之助(左京?)
尚、三宅秀氏以降の歴代についてAA様から次のようにご教示いただいた。厚くお礼申し上げる。
昨日(03:57)につづき、今朝(06:50)も震度3の地震、まだまだ熊本地震の主は健在のようだ。
阿蘇山の噴火の被害が農業や観光などに深刻な被害をもたらし、噴煙は風に乗って高松まで運んだとか・・・・、
小国町(阿蘇郡)中心部では20数軒が燃える火事。二重三重の試練をもたらしている。
大きな台風12・18号は熊本を避けてくれて、秋の気配をもたらし、先週は連日つづいていた気温31度が、今週に入ってから26度ほど、最低気温も5~6度下がって16~17度となった。
お蔭で早速のど風邪をひき、大くしゃみを連発し、鼻水が止まらずティッシュの箱が手放せない。
朝はまどを閉め、シャツを一枚重ね着をし、あさの冷スープが温スープに変わった。
ベランダから空を見上げると入道雲が姿を消して、青空は高くいかにも秋らしい。
周辺のブルーシートで覆われていた屋根の数もずいぶん減り、あと数日で熊本地震発生の日から6ヶ月、被災者の方の日常も戻りつつある。
「熊本藩年表稿」の寛永十六年の今日十月九日の項に次のようにある。
花畑館火事に付早飛脚を派遣す。
この時期藩主忠利は参勤で江戸にあり、熊本には光利(光尚)が在国していた。光利が忠利に宛てて書状を発したものであろう。 十日になると
花畑館火事につき、阿蘇在住財津一族残らず見舞いに来る。
また阿蘇山神主も見舞いにくる。 とある。
これ以上の詳しい記述はなく、火事は小規模のものではなかったのか、熊本の火事の歴史を見ても出てこない。
23日になると光利は芦北地方の巡視にでかけ11月3日帰城している。
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この花畑館のあたりは現在NHKの熊本放送局が建設されている。現在ほぼその全容が見えつつある。
新たな局舎での放送開始は新年度だろうか。左手のビルには朝日新聞の熊本支局が有る。
花畑御屋敷の跡はマスコミの雄が主となる。
http://www.nhk.or.jp/kumamoto/station_info/shinkaikan/shinkaikan-photo.html
右手の豊かな木々が見えるのが「花畑公園」、まさしく花畑御屋敷跡、西端にあたる場所である。