津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■幕藩制国家の政治構造

2017-03-04 08:43:31 | 書籍・読書

   幕藩制国家の政治構造

 
    吉川弘文館


前々から気になっていた本だが、値段が「11,000+税」と高く年金暮らしの爺にとっては購入とは参らぬ。
そこで図書館に出かけて借りてきた。
注目していたのは第二部のなかの「金納御手伝普請にみる幕藩関係ー寛政度御所造営に関わる熊本藩上納金を素材にー」(神戸大・経済経営研究所准教授 高槻泰郎氏)である。
細川齊茲代、天明八年の京都大火による京都御所の再建に関し幕府から20万両の金納御手伝普請についての経過が詳しく述べられている。
これは熊本藩の志願によってのことであったことを明らかにしているのだが、先々代・重賢公の宝暦の改革により剰余金の蓄積がなされこのような藩の意向が生じたものと考えられる。
嵩にかかって幕府は、宝暦の改革と幕府のために力になりたいとする重賢公の功績を称え、此のたびの上納金は加えて齊茲公はじめ国の誉れとなることだろうと煽てている。
そんな中20万両を17万両に抑えたいとする、細川家と幕府のやり取りが細川家資料を読み解きながら詳しく解説されている。
この中では触れられていないが、京都の大火の際、重賢公夫人の実家・久我家も焼失、その再建の為在町へ4ヶ年譜にて4万両の上ヶ金を課している。そのようなこともあっての駆け引きがあったと私は考えているが、5万両4年年賦で決着している。

大変興味ある論考である。

付け足し:
この中で高槻氏は齊茲公の家督について「明和九年に宇土藩主になるも、治年(先代藩主)の子が早世したため、治年の養子となり本藩の家督を相続した・・・」と記しているが、早世した子とは正室の子の流産を指しているのだろう。
この時期年和と慶五郎という男子があるが、治年は正室の弟・齊茲を養子として家督させた。
齊茲家督にあたっては二男 慶五郎の跡目が条件とされている。その慶五郎も幼くして亡くなると、齊茲は実子・齊樹を嫡子とした。
治年の嫡男・年和が健在であるにもかかわらずである。年和に家督の話がない理由が良くわからない。病弱ででもあったのか、それでも20年の生涯であった。
その一端を ■九代藩主・治年公逝去とその後継 で触れているのでご覧いただきたい。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松寿庵先生・226講

2017-03-03 16:06:11 | 史料
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本城東面図から

2017-03-03 11:54:15 | 歴史

               熊本城東面図

明治期の画人・赤星閑意の筆になる熊本城の東面図である。
蛇行するように書かれている川は坪井川、実際はこのように急角度の曲がりではなく150度ほどの緩やかな曲がりである。
左手奥に見えるのが藩主の居館・花畑邸である。坪井川にかかる左の橋が厩橋、その手前に伸びるのが通町筋である。
通町筋の左手に見える建物は有吉家(分家)の屋敷、厩であった時期もあり橋の名前が厩橋と名付けられた所以である。
後には監獄となったが、現在ここに熊本市役所が建っている。

右側の二区画には日本郵政グループの熊本ビルやホテルキャッスルその他の民間ビルなどが建っている。
安政年間の古地図では上が松山権兵衛、下が尾藤金左衛門の屋敷となっている。
坪井川の右手方向岩山のように書かれているあたりに、かっては宮本武蔵の屋敷があった。

遠景の一番高い山が金峰山(きんぼうざん・665m)である。

明治期を生きた赤星閑意の、西南戦争前の残像とも思える城下の有様を知ることのできる画である。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■万延元年三月三日雪模様

2017-03-02 16:49:30 | 歴史

 季節柄、吉村昭の「桜田門外の変」を拾い読みしている。
吉村昭という作家は徹底した下調べが有名な人である。いろいろ当時の記録が残る中、まさに現場を一部始終目撃した杵築藩士が書き残した書状など一等資料とされたことであろう。氏の小説をベースにした映画も、臨場感あふれる襲撃のシーンなどは細川家に預けられた水戸藩士・蓮田市五郎がかきのこした画に負うところが大きいように思える。
安政七年(万延元年)三月三日は積雪があったとされるが、新暦では三月二十四日とされるから随分遅い降雪である。
井伊家の侍たちは合羽を着用し、刀の柄が濡れないようカバーをかけるなどしており、これが応戦を遅れる一因となり悲惨な結果へと繋がっている。
杵築藩に残る文書の冒頭には次のようにある。
     三月二日夜半ゟ雪模様 三日未明ゟ殊之外大雪 春ゆへしかと積りは不致

もう随分以前仕事の関係で二か月間ほど、週一で東京通いをしたことがある。
その折警視庁前から桜田門周辺を散策したことがあるが、杵築藩の江戸屋敷がその警視庁が建つ場所であったと知るのは、ずっと後年のことである。井伊家の屋敷跡など思いもよらなかった。

そのほか以前にご恵贈たまわったこの事件に関係する資料などを眺めているが、まことに悲惨な有様が記されており、なんだか夢を見そうな気がしている。
    http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/s/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AE%B6%E6%96%87%E6%9B%B8 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■Wanted 八重櫻新左衛門

2017-03-01 15:13:43 | 熊本

 昼から自転車で5キロほどサイクリング、目的地は熊本市の南東部・嘉島町下六嘉との境に近い県道226号線の路傍にあるお墓である。
(地図で確認すると下六嘉のうちかもしれない)
以前通り掛りに見つけたのだが、大変古いお墓なのだが刻字が摩耗することなく残っている極めて珍しいお墓である。
寛政十年に亡くなった父親のためにその息子彌右衛門が建てたものだが、お墓の正面に「八重桜新左衛門」とある。
季節的には少々早いが何とも春らしくて良い苗字である。
右側面には「寛政十戌午八月十日 死」とあり、左側面には「釈西遊」、そして裏面には「施主・新左衛門 世倅 彌右衛門」とある。
台座の上に40×40×90H程の石柱がありその上に笠石が設けられている。159年ほど前の物だが文字がはっきり残っている。
またその右には自然石に「新左衛門掘之碑」と刻された高さ100×幅150ほどの石碑がある。
花立などはなく、お墓と石碑がシンプルに立っているが、玉垣に囲まれていて周囲は道路沿いに細長く150メートル程低木が植栽されている。
道が現状のごとく整備された時、改葬されたのではなかろうか。
何とも気になって態々出かけたのだが、情報は全くない。ご存知の方がお出でであればご教示賜りたい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする