津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■この監物殿は誰?

2017-03-13 08:47:28 | オークション

                                        長岡監物より有吉将監殿へ・口上之覚・私妹溝口蔵人0後妻縁組・・・少し虫喰い

                 長岡監物より有吉将監殿へ・口上之覚・私妹溝口蔵人0後妻縁組・・・少し虫喰い

                                             口上之覚
                   私妹溝口蔵人と
                   後妻縁組仕度奉存候
                    以上
                   六月    長岡監物
                   有吉将監殿 

 米田家の当主は代々監物を名乗る。この監物殿は何方?
溝口家も代々蔵人を名乗るからなかなか難儀であるが、ヒントは監物殿の妹が溝口蔵人に嫁ぐ(後妻)ということ。
この書状には付け紙があり、溝口氏の名が書かれていて貞幹(さだとも)とある。天保九年のことらしい。
監物についても「細川藩・主要家臣系図」を見ると、米田是豪の妹に「溝口貞幹嫁」とあつてこれにて一件落着。
姉妹が沼田延裕、清水勝茲、田中氏庸、平野長因にそれぞれ嫁いでいる。華麗なる姻戚関係である。

溝口家は小笠原秀政の七男・政房が家臣・溝口美作貞康の養子となり、その子政登が承応元年に肥後に罷越して細川家家臣となった。
政房の兄は豊前小倉藩主・小笠原忠眞、杵築藩主・小笠原忠知、姉が細川忠利室である。 

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■米田家と宇佐大神宮大宮司・到津家の関係

2017-03-12 14:04:21 | オークション

               中上質中厚紙・文政元年、長岡監物より長岡山城、有吉織部殿へ、口上之覚、宇佐大宮司到津三位娘・・・・

 

      中上質中厚紙・文政元年、長岡監物より長岡山城、有吉織部殿へ、口上之覚、宇佐大宮司到津三位娘・・・・

 

私は先にヤフオクで手に入れた文書から ■嫁は到津氏だけど・・・・を書いた。
最近また米田家と到津氏の縁組に関わる文書がヤフオクに出品されている。
大変読みやすい文書ですごくありがたい。

     口上之覚
    宇佐大神宮到津三位娘を
    私隠居長岡齋幼女ニ仕
    藪内蔵允名跡相續之二男
    藪庄次郎後妻縁組仕度
    奉願候以上
     文政元年
      十月七日  長岡監物

    長岡山城殿
    有吉織部殿

この内容により薮家八代が養子であることが分かった。
八代・庄次郎は天保11(1840)年に53歳で亡くなっているから、文政元年(1818)当時は31歳でありまだ家督していない。
七代内蔵允は文政七年、旅先であろうか播州明石で死去、これをうけて庄次郎が家督した。

この書状の監物殿は「寛政九年家督~天保三年没」の9代米田是睦であろう。その子が是容、弟が庄次郎である。
これらの関係も「細川藩・主要家臣系図」では触れられておらず、私にとっては新発見だった。
そして是睦自身も ■嫁は到津氏だけど・・・・で書いたように、到津家から夫人を迎えている。つまり兄弟そろって宇佐大神宮・到津家と血縁が結ばれた。興味深い文書である。                                   

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■3月29日熊本県立図書館・再オープン

2017-03-11 14:57:32 | 新聞

県立図書館、29日に全面開館                                                          熊本日日新聞から

県立図書館、29日に全面開館の写真、図解
本が並べられ、復旧工事をほぼ終えた県立図書館2階フロア。29日に全面開館する=熊本市中央区
 熊本地震の影響で一部を除いて閉館中だった県立図書館(熊本市中央区)が、29日に全面開館する。一般書や外国語の書籍貸し出し、新聞、行政資料などの閲覧を中心に、地震前と同様の利用が可能になる。

 地震で室内の照明が落ち、天井のガラス製仕切りが割れた。書籍も散乱し、職員が1冊ずつ元に戻してきた。今月中旬に復旧工事が完了する。

 現在は1階の子ども図書館と、併設のくまもと文学・歴史館のみ利用でき、2~4階は立ち入り禁止。1階の視聴覚カウンター周辺で実施している臨時の貸し出し・閲覧サービスは24~27日、検索機器や図書の配置換えのため休止する。

 29、30日は終了時間を早め、午前9時半~午後5時15分まで。通常の平日は午後7時、土日祝日は午後5時15分まで。火曜と毎月最終金曜は休館。(飛松佐和子)
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■内藤様

2017-03-11 13:15:14 | 熊本地震

 私の奥方の里は宮崎県延岡市、今は大企業・旭化成の城下町だがかっては内藤七万石の城下町であった。
市役所の西方にお城があり、勇壮な石垣が残されている。
岳父が亡くなってから足が遠のいてしまったが、お墓参りもかねてお城を訪ねてみたいと思っている。
熊本から約120キロあるので3時間を要する。この歳になると少々応える距離ではある。

幕末の藩主・内藤政義はあの井伊直弼の実弟だが、先代藩主・政順の夫人が井伊直弼・政義の長姉である。実姉であるとともに養母という関係である。
その故を以て養継嗣となり延岡藩内藤家七代藩主となった。
万延元年三月三日の「桜田門外の変」に於いては、当日が上巳の日であり内藤家の江戸留守居が挨拶のために彦根藩邸を訪れるが、まさに事件勃発の直後であったらしい。固く閉じられた門前で案内を乞うが、直弼公実弟の内藤家の訪問にもかかわらず、正確な情報は伝えられなかった。その江戸留守居は情報収集に走り回って藩邸に駆け戻る。
すぐさま国元へ急使が立てられた。10数日をかけて届けられた内容はとんでもない間違いであった。
「直弼公は存命されている、首を取られたのは藩士のものである。」直弼公の死はあくまで伏せられ、内藤藩江戸屋敷の実姉である内藤政順夫人また国元にある実弟政義公といえども真実は伏せられたのである。真実は後日再度の急使によって伝えられた。

延岡城は桜がきれいな所である。政義公が真の情報を得られたころは正に桜が咲き、風に花びらが舞っていたころであろう。
無念の思いを噛みしめて、桜を眺められたことであろう。
 

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■鎮魂の日

2017-03-11 07:12:40 | 徒然

 自然災害がもたらす名状しがたいその有様を我々はTVでリアルタイムに眺めてきた。
まさに目の前で起こる悲惨な状況に声もなく見入ったことであったが、これは当事者が実体験する恐怖は伴っていない。
熊本大地震を経験してみて、阪神淡路や東北各地の大被害がようやく理解できたような気がする。
それぞれの震災を比較するのは如何かと思うが、原子力発電所の被害を伴う東北各地の津波被害はやはり頭抜けている。
熊本地震に際して各地から多くの援助を得たことは、これらの大きな災害を教訓とした事が大きかったと思うし、「日本は一つ」と実感した。
苦しみを乗り越え将来にたち向かう心を共有して、前進するしかない。

鎮魂の日の東北の地に思いを致し、合掌の真を奉げたい。


 

 

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■火事の用心致しましょう

2017-03-10 18:09:19 | 歴史

 宝永四年と五年、熊本は大火に見舞われている。共に三月である。
宝永四年は三月五日、藩主の居館・花畑邸の目の前山崎町の住江専右衛門宅の長屋から出火、侍屋敷78軒、古町町1036軒、本山村百姓20軒、寺社18寺が消失した。
翌五年は三月十日、坪井竹屋町から出火1200余軒が消失、多くの死傷者が出た。
これをうけて火除け地として広丁・草場丁が出来、又白川小堰から取水して水道町まで水道が設けられた。声取坂付近で白川に落としたという。
又、享保十四年四月廿八日の 享保十四年・藪の内火事では、この時期どこに住んでいたのかよくわからないが我が家も終えた。
2580軒の家が焼失、多くの寺院も燃え我が家の菩提寺も焼失している。

史料をよく見直してみると、我が家の初代の姪が建立した宗厳寺も焼失していた。

木造にわら葺屋根では、いったん火災となると大災害となる。避難などどうしたのか資料を見てみたいのだがまだ果たせないでいる。

「火の用心致しましょう」 

 

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■週末読書

2017-03-10 16:49:35 | 徒然

                        


 熊本市立図書館の前を通りがかった。ちょっと覗いてみようと入館。
ぶらぶらしていたら、池波正太郎の「一升枡の度量」が目に飛び込んできた。
思わずつかんでカウンターに向かったが、カードを処分したことに気づいた。
そこで新しく作ってもらって借りてきた。土日はこの本を読んで過ごそうか。

熊本県立図書館ではまだ閲覧室に入ることができない。いつになれば完全オープンになるのか??
図書館では閲覧ができないとどうにもならんでしょう。 

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■松寿庵先生・227講

2017-03-10 07:04:42 | 史料
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■御大身の金策

2017-03-09 07:38:53 | 歴史

 江戸庶民の間で、鍋・釜などを買ったら紙に「細川」と書いて貼ると「金気がとれる」と言われていたそうだが、細川家の財政ひっ迫は日常茶飯のことであった。
忠利公は妹
万姫(烏丸光賢室)から数千両かりたり、徳川忠直の家臣で熊本に配流となった春日局の息・稲葉正利持参金をかりたり・・・綿考輯録は余すところなく記録している。
大身のDS(5,000石)、ET(1,500石) 等についても綿考輯録に詳しい。
又三井家からの巨額な大名貸しについても返済ができずに、「細川家は、前々より不埒成御家柄にて、度/\町人の借銀断在之、此節辻・玉屋・家原、皆/\此御屋敷へ大分の滞故、つぶれ申候 」と町人考見録は記している。

さてここで取り上げるのは、細川家ご一族のU家、少々手元不如意となって思いつかれたのが「講」である。
ここには藩の役人が介在している。一人は吉田鷹之允(吉田如雪の父)、今一人は山内多蔵であり町方を束ねる役職の根取であったという。
文政十二年十一月にはこの二人から古町界隈の大商人に勧誘の回文が出ている。これは一月後一件取り消しとなったらしく、回文の回収がなされた。
処が翌天保元年話が蒸し返し、一口5貫目で16口が古町・新町・京町・西坪井町の大商人が勧誘された。
その他4口は御郡方・町方・櫨方・蝋打所などの藩の部署が参加した。

つまりは藩が公認したということだろうが、町人にとっては迷惑な話である。しかし勇気をもって断った人が二人あったらしい。

この講がどのように運用されたのかはよくわからない。ご大身ならでわのいささか強引なやり様ではある。

付け足し
かってNHKで「銀二貫」という木曜時代劇が放映された。ここでは銀ニ貫=33両=300万円と解説しているが? 
都合18口90貫目、上の金額で換算すると13500万円という金額になる。
  

 

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■桜数輪

2017-03-08 14:44:29 | 徒然

 鼻水は止まったが目が痛いのは相変わらずだし、喉も真っ赤に晴れているが熱はない。然らばとばかりに近くの本屋さんまで出かける。
「新潮」を買うためだが・・・姿が見えない。店員さんに聞くと注文の入荷のみで一般販売分はないという。地方の悲しさだ。
「又吉さん、これはまた増刷ですぜ」

 帰り道の自衛隊通り(西部方面総監部・健軍駐屯地前)は数百メートルの桜並木で、熊本の桜の名所でもある。
自転車で桜のつぼみの具合を観察しながら、上を見上げながら走っていたら、正門から北へ50メートルばかりの所でなんと開花している桜を発見。
スマートフォンでカシャリ、自転車にまたがったまま背伸びして撮ったものだが、これはトリミングしたもの、あまり写りもよくありませんでしたがお披露目です。

             

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■きくさいやおひつき

2017-03-08 10:19:21 | 徒然

 「きくさいやおひつき」・・・漢字交じり文に変換せよ、そして何のことを言っているのか。さて答えは?

一昔前に遭遇したこの問題、あちこちに濁点を打ちながら考えたが、答えが導き出されなかった。
「いや」を「弥」と読んだ人は上等である。
答えは「木草弥(いや)生ひ月」で弥生・三月のこと、「草や木がいよいよ生い茂る月」である。

その頃はまだ古文書に親しんでいなかったから「弥」の文字が浮かんでくることは100%なかった。

ある会合で老齢のご婦人が、「〇〇やよい」ですと自己紹介された。
付け足しに「三月生まれです」といわれ、「実は漢字ではなくてカタカナで『ヤオヒ』と書きますと言われた。
言わなければよいのに「きくさいやおひつき」が命名の由来ですねと申し上げたら、にっこり笑われて「その通りです」と嬉しそうに仰った。
「弥御健勝ニ被成候哉」とお尋ねしたい処ではある。 

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■最悪の状態です。

2017-03-07 15:46:53 | 徒然

       義理を欠き欠席告ぐる 春の風邪  津々

 目はかゆい、鼻水すたすた、わが人生最悪の花粉症だ。
おまけに喉風邪をひき、三重苦の日々を過ごしている。
これでは予定していた会合への出席もままならず電話を入れると、鼻声にすぐ合点していただいた。
「電話越しうつると困るけん切りますばい」と相手の冗談めいた声、また一つ義理をかいてしまったが 「お大事に」と一言添えていただき恐れ入る。
今日はのどの消毒に一杯飲んで、早々に寝ることにしましょう。 

     

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■長崎新聞から

2017-03-06 11:45:04 | 新聞

 

県内トピックス (2017年2月17日更新)
長崎新聞
原城落城のとき特別展盛況
貴重な古文書を熱心に見学する来場者=南島原市、原城図書館
貴重な古文書を熱心に見学する来場者=南島原市、原城図書館

 島原・天草の乱(1637~38年)や禁教期の様子を古文書など25点で紹介する南島原市と西南学院大学博物館(福岡市)の特別展「原城落城のとき-禁教・潜伏への道のり」が、南島原市南有馬町の原城図書館で開かれている。無料。3月20日まで(休館日の火曜と毎月最終金曜は休み)。

 乱発生直後の緊迫した様子を記した書状の写しや、天草四郎の首を取った幕府軍兵士の戦功報告、乱の約90年後にまとめられた物語調の軍記、禁教政策を広める立て札、並べて十字架に見立てるための銭貨8枚などを展示している。

 初日の15日は市教委文化財調査員の南浦利早学芸員の解説があり、県内各地の約50人が参加。会員2人と来た島原観光ボランティアガイド(島原市)の相良信一会長(69)は「客に島原半島の歴史を伝える私らにとっても原城跡は重要な場所。貴重な史料と解説で、現場兵士の苦労など当時の場面がリアルに目に浮かぶ。大変勉強になる」と話した。

 18日午後2時~4時には熊本大の稲葉継陽(つぐはる)教授の講演「島原・天草一揆と『天下泰平』」が南島原市西有家町のカムスである。参加申し込みは市教委世界遺産登録推進室(電0957・73・6705)。

 

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■元号改正のこと

2017-03-06 10:12:37 | 徒然

先に■万延元年三月三日雪模様を書き、松寿庵先生・226講でも桜田門外の変が取り上げられ次回もその続きらしい。
細川家においても水戸藩士を数名預かることになり、大変な警固体制を整えて大事に備えた。
「熊本藩年表稿」には、三月三日「大老井伊直弼、桜田門外にて刺客の難に会う。刺客八人本藩に預けらる。八日諸藩に預替、他藩のもの潜入の模様につき取締」とある。

杵築藩に残る貴重な目撃史料は「江戸状之写 萬延之申年之事」と題されているが、これは後につけられたものであろう。
文面は即日国元に発せられているから、三月三日はまだ安政七年のうちである。万延は事件の後、三月十八日(G暦4月8日)に改元された。
この事件が改元の理由であることは想像に難くない。そして一年足らずの翌年二月十九日(G暦3月29日)文久と改元された。

万延の元号は後漢書馬融伝の「豊千億之子孫、歴載而永」が出典だとされる。
文久の元号は『
後漢書』謝該伝の「武並用、成長之計」が出典、ともに時代を背景とした為政者の想いを伺うことができる。

図らずも天皇陛下のご退位が現実的になってきた。現在も海外へ一週間もお出かけになる激務をこなしておられるが、早く天皇の想いが実現されることを願うところだが、どこかで密かに新しい元号の検討が行われているのであろう。
「昭和」の元号は「明和」と出典が同じだという。『書経』尭典の「百姓明、協萬邦」(百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す)による。
平成の改元はTVで拝見してよく承知をしている。
出典は『史記』五帝本紀の「内(内平かに外成る)」だが、「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味だとされる。
平成も29年が過ぎ、45年間過ごした昭和も「昭和は遠くなりにけり」の感が深い。

浩宮様の新しい時代の元号がどのようなものになるのか大変興味深いし、更なる平和の時代を希求するにふさわしい元号を望みたい。 

 

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■「神風連150年」展

2017-03-05 08:03:15 | 展覧会

 何事につけ一つの節目に歴史に思いをいたすとき、新たな感慨に包まれる。
神風連の挙から140年を迎える今年、「文学資料と当時の資料で描く」神風連展が行われる。
熊本の歴史を勉強していると、何かにつけ神風連の方々に遭遇する。展観をしてまた知見を広げたいと思う。 

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