津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■祖父の雅号と父の花押?

2024-05-12 06:38:06 | 徒然

 昭和27年の熊本大水害では、我が家は鴨居ぎりぎりくらいまで浸水したから、ほとんどの家財が水損もしかは流失してしまった。
わずかに残ったのはお位牌その他先祖附などが、天袋に入って助かった。
それゆえ、祖父や曽祖父の書なども無くなってしまった。
空襲の時は隣家が焼夷弾の被害を受けたが類焼は免れ火災の経験はない。
火災・水害でまたは地震・津波などで思い出をなくされた方々が多く居られ御同情申し上げる。
その後、親類から写真や祖父の書などが送られてきて、是がわずかに残されている。
祖父の書というのは掛け軸で「至誠」と書かれている。そして「羊我」という祖父の号と思われるものが記されているが、印はない。
羊我を縦書きにすると「義」という字になる。祖父の名前の一文字である。
見たときすぐ判って、思わず「ふっ」と笑ってしまった。
水害に遭遇したのは私が6年生の頃だが、流失した亡父の蔵書数百冊も流失したが、そんな本の中に父のサインなのか花押なのか判らないが記されていたのを思い出す。
これも同様名前の一文字「義」をアレンジしたもののように思うが、小6の幼い記憶力は残念ながらその残像が薄れてしまって定かではない。

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■「黒田蔵人知行召し上げ」の真相?

2024-05-11 09:05:11 | 人物

寛永六年五月十一日の奉行所日帳に次のような記録がある。

     (正直)               (正重)
一、河喜多五郎右衛門尉被申候ハ、黒田蔵人知行被召上候時、御借米滞分、村々百生未進分、到其時上納不相成ニ付、
                                                                                                                                                 五百石
       次第/\ニ取立申候、猶残分ハ蔵人へ被遣、五百石ノ御知行にて取立申候処ニ、蔵人被申候ハ、主知行所〇にて、
      弐千五百石二在ノ候未進分を被 召上儀候、御取立候て返し被下相当様ニと被申候、如何可在之哉と被申候、上
      知分ハ御蔵納二成申候、然上ハ御蔵米にて返し候ハねハ不成候、御蔵米を返候儀ハ成間敷由、申渡候事、 

頭注には「黒田正重知行召上ノ時ノ借米百姓未進分次第ニ取立ツ知行二五百石未進分二千五百石未進分ノ返弁ヲ望ムモ蔵納ハ返サズ」とある。
蔵人の知行は500石であったが、肥後入国後は知行の一部を召し上げられている。肥後入国前の寛永6年の借米の返済が滞ったのが影響しているのだろうか。
上記文章を読むと、百姓衆からの知行未進が影響しているが2,500石あるとしているから、知行の5倍にあたる。これでは借米に頼らざるを得ないだろうが、これも返すことができずに減知となったのだろうか。

さてこの黒田蔵人は肥後入国後は伊丹格助と名前を変えている。又、嫡男の伊丹半弥(黒田次左衛門)の項を読むと、「寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石」とあるから、蔵人(伊丹格助)も2,500石拝領していたことになる。

黒田蔵人(=伊丹正重・角助)
   豊前時枝城主・時枝平大夫二男。はじめ黒田孝高に仕。致仕後福島家に仕えるも福島家信州転封により牢人、大坂に
   て細川忠興に召出さる。寛永十八年六月八日没

●黒田蔵人  (1)本名伊丹  頭衆五百石  (於豊前小倉御侍帳) 
     (2)五百石  (肥後御入国宿割帳)
   参考:召し出しについて
      ・元和5年10月15日 大日本近世史料・細川家史料(1710)より
      ・元和6年正月10日、黒田蔵人召抱 (忠興文書・199)
      ・黒田蔵人事、抱可申由、得其意候事 (綿考輯録・巻二十 P95)
●伊丹角介 (3)人持衆併組迯衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)

       (4)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
       (5) 長岡監物組・御中小姓頭 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
嫡男
●伊丹半弥(黒田次左衛門)
   伊丹次左衛門 景重(かげしげ)始め黒田次左衛門、ついで伊丹半弥と改。黒田蔵人正重(のち伊丹角助)が嫡子。
   豊前に於て忠興に別禄五百石で召出さる。寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石、黒田を伊丹に改。鉄炮百挺頭、
   のち佐敷番代。致仕後百人扶持を与えられる。83才にて没。年月不詳。  
     (1)御鉄炮頭衆  弐千五百石 (真源院様御代御侍名附)
     (2)弐千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・次左衛門
     (3)万治二年十一月知行被差上候 弐千五百石 (※)・・半弥之助
     (4)芦■  御知行御合力米御御扶持方被遣衆・百石 (寛文四年六月・御侍帳)

 

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■熊本史談会・令和6年5月講演会の御案内

2024-05-11 06:31:03 | ご挨拶

        熊本史談会・令和6年5月講演会の御案内
                            熊本史談会・会長 毛利秀士
                    記

期日:令和6年5月18日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
講師:儒学、そしてその変遷
演題:論語研究家・「出水論語講塾」講師  阿田俊彦氏

一般参加自由:
    資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。

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■神足掃部に関する「覚」

2024-05-10 09:15:20 | ご挨拶

  2009年12月に天正十年六月朔日神足掃部青龍寺城ニ而覚書をご紹介していたが、昨日この資料が顔を出した。
 これは、明智謀叛当日のありさまを記したものとして貴重である。
 青龍寺城外郭部に神足氏の居館があったと伝えられるが、今では神足神社が存在する。
 細川家根本家臣の一人である神足氏の貴重な史料である。
 よくみると2009年に御紹介したものは6頁中の2頁分であったので、14年半ぶりに後半部をご紹介しようと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

              
一私曽祖父神足掃ア(部)儀山城国西岡住居仕候時分御先祖ゆうさ以(幽齋)様奈らひ青龍寺江御打入被成候刻別而御出入申上候
 其比乱世ニて其邊并方々ニ一き(一揆)共はうきとゝに及申候由然を掃アニ御頼被成候ニ付御加勢仕無事ニ罷成候由就夫幽齋様
 常々被仰候自然之儀御座候ハゝ一方を御頼可被成との御約束承及申候
一あけち日向殿秀吉公とたから寺ニて御取向之時日向殿打まけ被成候ニ付右之御なしミ御座候故掃アニミつき可遣由御頼ニ付掃ア
 手勢ニ而水手迠はせ向以太閤様相さゝへ申間ニ伏見まて御ひらき被成候由承傳候 三斎様右之通りニ御座候故掃部子三郎左衛門
 ・庄五郎・半七三人召出され御奉公ニ罷出申候
一半七儀後ニ八郎左衛門と申候 原ノ城之節打死仕候 右神足浅之助書出しニて御由申傳候ひかへ(控)
一慶長五年八月二十三日岐阜ニて高名
  西郡大炊助  後左馬允牧新吾  後隼人かゝ山庄左衛門
  岡野半右衛門   中嶋左近   中路新兵衛
 右六人一処ニて手ニ逢被申候 後長岡内膳有吉与太郎 ・十八歳初陣

 一ノ次戸口ニ而鑓を合組打の高名仕候
  構瀬五郎助    野尻隠岐   田中助八 紀刕様へ被居候
 右ノ三人湏戸口左右ニ而高名被仕候

                  沢村才八
 母衣武士と組て崖之下ニ落武者壱人助来て才八を突刎候て又ニ三間轉ひ打留首を取其時七ヶ所手負被申候
 極者之もの矢野六左衛門・同友之助引立忠興公御前ニ被召出候

  沼田小兵衛    荒木
 右両人鑓下之高名被仕候

  細川玄蕃   築山与四郎  金森半介
  久条三大夫  森 忠三郎  米田与七郎
          後監物       十五才
 右之衆本丸ニ早ク付高名

  討死 米田助右衛門 沢田次郎助
  岩村新蔵   手嶋源助   石田平八
 右四(五?)人手ニ逢被申候

         松井式部少
 本丸大手門下ニて弥手負被申候

一同年九月十五日 与一郎様 与五郎様
   細川玄蕃殿
 右三人鑓を合御手負被成候
   鑓下之高名 有吉与太郎
   能キ高名  米田与七郎
   かゝ山庄左衛門  津田夕庵  牧長三郎
   鯛瀬善助     矢野求馬  杦原三平
 右六人高名
一豊後石垣原  長岡佐渡  後武蔵有吉四郎右衛門
 右両人自身鑓を合被申候
                 「文献雑録」

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■細川藤孝は和泉上守護家、忠興は奥州家

2024-05-10 06:22:05 | 歴史

 ある方からのリクエストにより、細川管領家、阿波守護家、細川藤孝の和泉上守護家、和泉下守護家、淡路守護家、備中守護家、典厩家、そして忠興の養父・輝経の奥州家にいたる細川一族の略系図を書いてみました。
4時間にも及ぶ苦行の結果です。(要チェック)

                                       +ーーー義俊ーーー俊氏
            足利家初代               細川家初代   |      ⇩
清和天皇・・・・・(7代)・・・・・足利義康ーーー+ーーー義清ーーー義実ーーー細川義季ーーー+======俊氏ーーーーーーーーーーーー+
                      |                                                                                |
                          +ーーー義兼・・・・(5代)・・・・尊氏                 |

   +ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+
         |
   +ーーー公康ーーー+ーーー和氏ーーー+ーーー清氏ーーー正氏
         |     |       |
   |     |       +ーーー業氏(奥州家4代)
   |     | 管領家初代    2代    
   |     +ーーー頼春ーーー+ーーー頼之   
   |    |     |【阿波守護家】
   |    |     +ーーー詮春ーーー義之・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・澄元管領家8代
   |    |     |【和泉上守護家】
   |    |     +ーーー頼有ーーー頼長ーーー持有ーーー+ーーー教春
   |    |     |             |
   |    |     |             +ーーー常有ーーー+ーーー政有
   |    |     |                 |
   |    |     |                 +ーーー元有ーーー+ーーー元常==藤孝
   |    |     |                        |     ⇧
   |    |     |           +ーーー持元        +ーーー晴員==藤孝
   |    |     | 3代     4代  |   5代   6代   7代      8代
   |    |     +ーーー頼元ーーー+ーーー満元ーーー+ーーー持之ーーー勝元ーーー政元==+==澄之
   |    |     |     |     |【典厩家】         | 9代   13代    14代 
   |    |     |     |     +ーーー持賢          +==澄元ーーー晴元ーーー昭元               
   |    |     |     |     | 10・12代    11代

   |    |     |     |     +==高国ーーー+ーーー稙国
   |    |     |     |【野州家】      ⇧  | 
   |    |【淡路守護家】 |     +ーーー満元ーーーーーーー高国   +ーーー氏綱 
   |    +ーーー師氏  |【備中守護家】 
   |           +ーーー満之ーーー+ーーー頼重
   |                |
   |                +ーーー満久
   |                |【和泉下守護家】
   |                +ーーー基之
   |【奥州家初代】
   +ーーー頼貞ーーー+ーーー顕氏ーーー繁氏==業氏・・・・(6代)・・・・輝経==忠興 
         |     
          +ーーー直俊   
         |
          +ーーー定禅
         |
         +ーーー皇海                                                      
                   

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■ひたすらに整理

2024-05-09 10:56:37 | ご挨拶

 一件資料の整理が終わりません。まあ、終活といったところです。
久しぶりに出てきた資料は、関係するファイルに入れたり、クリアファイルに入れて新たに管理したりと後始末が大変です。
また、各地の史談会や史学会の会誌を検索しまくり、手に入れた会誌は宝物です。
「土佐史談207号」には、土佐切支丹外史が掲載されていますが、副題に「マグレナダ・キオタ考」とあるのを見出した時のうれしさを思い出しました。
また、細川忠利と前田利家夫人・芳春院の江戸證人として江戸入りする時期を確認するために、「芳春院江戸證人一件-随従の藩重臣子弟女の事-」という記事を、「石川郷土史学会々誌-第54号」で見つけたときの喜びも思い出されます。
日本風俗史学会会誌「風俗№57」もそんな中から顔を出しましたが、「細川家・松浦家の伝承衣裳にみる南蛮的要素について」なども面白く目に留まり、これは、伊藤なお枝著「清正公の南蛮服」の隣に移しました。
そんな資料が顔を出してくると、それぞれ小一時間読み行ってしまいますから、5~60㎝に積みあがっている一件資料の嵩が減ることは何時のことやら・・・
そんな出てきた資料をどう保管しようかとただ場所を動かしただけの小山ができ始めました。

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■富田氏-堀氏-阿部(河井)氏の関係

2024-05-08 08:18:00 | ご挨拶

 何気なく「細川家家臣略系譜」を眺めていたら、「河井家の祖は阿部主殿助」という記事が目に入った。
阿部主殿助といえば、宮本武蔵とのかかわりがある記事があったなと思いだした。

       一、宮本武蔵ニ七人扶持合力米拾八石遣候 寛永十七年八月
         六日ゟ永相渡者也
           寛永拾七年八月十二日 御印
                            奉行中
          右御印佐渡守殿ゟ阿部主殿を以被仰請持せ被下候右之
          御印を武蔵ニ見せ不申御扶持方御合力米ノ渡様
             迄ヲ能合点仕やうに被仕候へと被仰出旨主殿殿所より
          佐渡殿へ奉書を相添候と佐州ゟ被仰聞候也

 その阿部主殿助の履歴を見ると寛文十二年八月二日に「乱心」として処分されている。
「熊本藩年表稿」を見ても何も記されていないが、藩主・綱利との間で何事かほ機嫌を損ずることがあったのだろう。
阿部主殿で当ブログ内で検索をかけたところ、「旦夕覚書」に次のような記事があった。
        阿部主殿と申五百石被下堀七郎兵衛母方の祖父にて(以下略)

 そこで堀七郎兵衛を調べてみると、七郎兵衛の祖父新五左衛門について次のような記事があった。
       新五左衛門義兄(弟)冨田小左衛門(光尚殉死)跡式について
         堀新五左衛門二男藤松重次(伯父小左衛門重直殉死之年生レ申候、後小左衛門
         ト改)四歳ニ成候時、承応元年小左衛門跡式五百石拝領
                                 (綿考輯録・巻65-P492)

 この伯父なる小左衛門とは、福島家牢人富田与兵衛重冬の四男で富田家初代・小左衛門重直のことである。
与兵衛は細川家三卿家老の有吉家の武蔵守立行の婿であり、次女が堀新五左衛門に嫁いでいる。
小兵衛は細川光尚に殉死したが、跡目については次のようにある。
       跡目之事慶安三年七月十一日六丸君より御家老中ニ被成下御印之覚書
        冨田小左衛門母ニ弐拾人扶持方遣之候、小左衛門女房之儀未若年之由ニ候間
        和田主膳肝煎可然存候方江縁ニ付尤ニ候、其方なとも存寄所於有之ハ可有其
        沙汰候、縁ニ付候内ハ右女房ニも弐拾人扶持方遣候事 (綿考輯録65-P506)

 富田家の跡目は、堀新五左衛門の二男が継いだ。
    2代-小左衛門(養子 実・堀新五左衛門二男・藤松重次)四歳ニ成候時跡式五百石拝領
           九番小笠原民部少輔組 五百石 (真源院様御代御侍名附)・・藤松

いろんな記事に巡り合って、阿部主殿助の実力のほども垣間見えてきたが、略系図にすると堀七郎兵衛と弟・小兵衛は異母兄弟としないとつじつまが合わなくなり、少々困っている。

   有吉立行ーーー+ーーー興道
       |
       +ーーー英貴
       |
       +ーーー●壽桂
          ‖ーーーー+ーーー小左衛門===小左衛門 2代-小左衛門(養子 実・堀新五左衛門二男・藤松重次)四歳ニ成候時跡式五百石拝領
       富田与兵衛 |         ⇧
             +ーーー●二女    ⇩
               ‖ーーーーー+ーーーー小左衛門(二男)
    堀新五左衛門ーーー新五左衛門  |
               ‖    +ーーー七郎兵衛(嫡男) 阿部主殿と申五百石被下堀七郎兵衛母方の祖父
          阿部主殿助ーーー●

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■近衛家と細川家

2024-05-07 10:01:05 | 歴史

 昨晩TVで「英雄たちの選択-近衛家と細川家」が放映されていてあわててしまった。連休が続いて曜日がピンとこずにいた。
さて劇中の二人は、近衛家熙と細川綱利、同時代の人とは言え面白い取り合わせで、話がどのように進行するかと興味深く拝見した。
前を少し見落としたから、再放送を待ちたい。

       +ーーー後陽成天皇ーーー+ーーー後水尾天皇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・+ーーー昭和天皇
     |          |                         |
   +ーーー八条宮     +ーーー四宮                      +ーーーーー三笠宮ーーーー靖子
                 ⇩                               ‖
    近衛前久ーーー信尹===信尋ーーー尚嗣ーーー基熈ーーー家熈・・・・・・・・・・・・・・文麿ーーー+ーーー文隆=====忠輝
                                                                                                             |         ⇧
                                     +ーーー温子       ⇩
                                         ‖ーーー護熙・忠輝 
     細川藤孝(幽齋)ーーー忠興ーーー忠利ーーー光尚ーーー綱利・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・護貞

 後陽成天皇のお子・四宮、信尋が近衛家に入られたから近衛家は皇別摂家となったが、細川家と近衛家のつながりは、信尋女が水戸光圀に嫁いでいるから、光圀の実妹(松平頼重養女)を室とした綱利も縁をつないでいる。
私は公家としては破天荒ともいえる前久・信尹の行動に大変興味を持っているが、天皇家出身の信尋の行動もまた興味深い。
近代に至り、護貞さまが近衛温子さまと結婚され、そのお子である忠輝さまが近衛家を継承され強い絆が生まれている。
まさに貴種と呼ばれる所以である。

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■「参勤」変じて「述職」となる

2024-05-07 07:09:05 | ご挨拶

細川韶邦夫人峯・先代細川斎護室・顕光院、それに韶邦の兄・慶前未亡人鳳臺院などが、文久二年の参勤交代制の宥免に伴い、大名夫人の江戸住が御免となり熊本へ帰国された。
これはまさに横井小楠が国是七論にのべた「 一、大名の妻子を国許に帰す。 一、大名の参勤交代をやめて述職に変える。」が実行されたことによる。
このことが決定される会議の席上で、政事職の松平春嶽は同席した儒者の林某に「書経にある述職」の意はどういう意味かと尋ねたといわれる。
聞きなれない「述職」という言葉は、表向き参勤にかわる「将軍への領内政治報告」だとされるが、本来の意味は「諸侯が天子に朝謁して職事の状況を上申すること。」であり、儒者の林某は十分その意味は承知していたにもかかわらず「取り調べの上」としてその場を濁したと伝えられる。
春嶽夫人・勇姫は言わずと知れた斎護女であり生母は顕光院である。
江戸にあったころは、母子の交流も妨げとなる者もなかったであろうが、顕光院も勇姫もそれぞれ肥後・越前へ帰国するにあたってはつらい別れであったろう。
御三方それぞれが大国とはいえ初めてのお国入りで、心細いものであったろうが、南関の関からのお国入りに関しては玉名郡代・中村恕斎らの心配りで大いなる歓迎を受けて心安ら叶事であったろう。
細川韶邦夫人は花畑邸、顕光院と鳳臺院は二の丸屋敷には入られ、顕光院はのちには砂取邸(現熊本県立図書館)に入られた。
晩年病気になられると、娘である春嶽夫人・勇姫は初めて肥後国入りされて顕光院を見舞われている。
女性たちにとっての「大名妻子の帰国」は、母子の寂しい別離を生んだ。


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■知行制度の変遷

2024-05-06 07:09:09 | 歴史

 随分以前の話だが、ある方からご先祖様の知行地を訪ねたという話を聞いた。
幾ばくかの資料は得られたが、知行地の主としての評価が如何であったのかは知ることができなかったといわれる。
もっとも、延宝八年になると年貢の直接収納はなくなり、給人に対してはすべて蔵米が支給されるに及んでは、知行地とのかかわりも薄れていったものと思われる。
「その後は擬作(あてがい)となり、知行地もなくなりました」と寂しそうにされていたが、「我が家も同じですよ」と慰めにもならぬ言葉をかけたことを思い出す。
鎌田浩氏に「近世武士相續法の特色ー熊本藩を中心としてー」があるが、この論考をもとに知行制度の変遷をまとめてみたい。

 細川家草創期の藤孝・忠興の時代の侍の知行は個人の実績を以てもたらされた。
その様な家は、一方では青龍寺以来・田邊籠城衆・丹後以来などという家格が尊敬の対象ともなった。
時代が進み忠利の時代となり、肥後(一部豊後を含む)54万石の太守となると、しばらく我慢をすれば金持ちになるだろうと息・光尚に伝えている。
そんな忠利は入国後の寛永10年2月、「世録制」を打ち出した。家禄の世襲である。
このことを知った父・三斎は驚きの声を上げているが、しかし反対もしていない。
つまり三斎に時代は、次のように「一代限り」が原則であった。
 1、萬事戦國の遺風ありて武士の御取扱も先は一代限にて、跡式は其子の器量の次第に全も、滅しても、分ちても被下

 忠利の肥後入国後の寛永10年2月、次のような「掟」を発しその遵守を命じているがそのなかに「世録制」を打ち出している。
 2、右之旨有違犯之族ハ急度可申付、堅固ニ於相守ハ、不撰古参新参、死後之遺蹟不可有相違、縦雖實子、依親之奉公或其子之所存遺言不可立
忠利が54万石の太守となり「金持ちになる」という思いの中で、この画期的な家臣に対する「恩恵的世録制」が誕生した。

しかし、天草島原の乱という大事件の勃発、ポルトガル船の長崎入港に伴う出費等により、この世録制の維持の先行きに暗雲が立ち上っていく。

 3、延宝八年(1680)の綱利代に至り給人の年貢直接収納権を取りやめ、藩の手によりこれを行い、給人には蔵米を以て支給するように決定された。「地方知行の擬制化」である。
しかし、これは給人らの強い拒否感により数年で頓挫している。
綱利が隠居し35万石という幕府借入金を抱えた新藩主・宜紀は、4、正徳四年(1714)に至って再び「蔵米支給」を固定化するに至る。「知行取」とは言いながら直接収納権を失うことになる。

 4、重賢の登場を迎えるに及んで、「知行の相続」に関しても大々的に変革が行われる。
度々の段階を経て寶暦六年(1756)閏十一月、以下のような厳しい改正案が打ち出された。いわゆる「世減の規矩」とよばれるものである。
士中知行代々相續之事、大躰當國之高に應し古代之定有之候處、中古ゟ我等ニ及迄、新知加禄等茂總て世録ニ申付來候ニ付當國不相應之高ニ至り、従來勤勞之者有之とも賞すへき禄乏、數世背前代之本意候。依之、慶安二年以前之知行ハ舊知之家ニ付無相違相續せしめ、右以後之新知家禄ハ、代々相續之高を斟酌し可申付。尤子孫抜群之功勞ニよってハ舊故之家ニ准し、或ハ子孫之才能ニよつてハ強ニ世減すへからす・・・

慶安ニ年以前つまり天草島原の乱やポルトガル船の長崎入港に当たっての出兵を最後に、「慶安年間を以て治乱の境界」だとし、「元亀天正以来矢石を冒し、干戈を踏み、死生の間を馳突して君主を擁護し、或いは武勲抜群の誉ありしものゝ子孫」をもって旧知の家とした。旧知の者でも慶安二年以降に加増された知行は新知として扱っている。
これは綱利による側近に対するお手盛り加増は含まれないことを暗にさしているのだろう。

「世減の規矩」に於ける知行の減知については■慶安三年というボーダーラインでご紹介した。

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■夏来る

2024-05-05 16:39:23 | ご挨拶

 今年も我が家の眼下を流れる健軍川の少し下流部に沢山の鯉のぼりが川面になびいています。
観光地以外では見慣れない風景でしょうが、近所の私たちにはお馴染みの街中風景となりました。
そんな中今日は立夏を迎えましたが、熊本はどんよりとした天気でまだ夏が来たという感じはありません。
今晩から明日にかけては又雨になりそうです。
お子様がおありのお宅では、ご家族連れの行楽でお忙しいことでしょう。お疲れになりませぬように・・・

 それでもいよいよ夏かと思いながら、歳時記をひろげてみました。
なんといっても西東三鬼や富安風生の次の句が目に飛び込んできます。

   ・おそるべき君等の乳房 夏来る      西東三鬼
   ・しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る 富安風生

 これはもう夏本番の夏という感じですね。私はと言えば部屋内にあった風鈴を外に出してみました。

   ・風鈴の準備おさおさ 夏来る    津々

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■三つの歌の作者の人間関係

2024-05-04 15:48:05 | ご挨拶

 百人一首に登場するこの三人、藤原兄弟に関係する人たちですが、百人一首に詳しい方にはすぐお判りかもしれませんが・・・如何ですか

■あけぬれば 暮るるものとはしりながら なほうらめしき朝ぼらけかな (A) 藤原道信朝臣
■なげきつつ ひとりゐる夜のあくるまに いかに久しきものとかはしる (B) 右大臣道綱母    
■忘れじの ゆくすゑまではかたければ 今日をかぎりのいのちともがな (C) 儀同三司母(高階貴子)   

             (C)   ・尹周 (儀同三司)     
              ‖ーーーー ・定子 (一条帝皇后)
     +ーーー道隆  ・隆家
       |
     +ーーー道兼===(A)
     時姫  |
  ‖ーーーー+ーーー道長
藤原兼家
  ‖ーーーーーーーー道綱
 (B)

他にも尹周の子・道雅ほか、藤原一族がオンパレードで登場するのがまさに「百人一首」の世界ですね。 

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■流長院・九重塔の寄進

2024-05-04 14:50:00 | 人物

                  流長院九重の塔

 流長院に九重の塔があることは承知している。
是もまた資料整理の中で、我が家の初代庄左衛門の姪(兄・磯部長五郎女)のことが記されている、新坪井にあった宗嚴寺の一枚資料が顔を出した。
元禄七年(1694)二月十九日に70歳でなくなったというから、生まれは元和九年ころであろう。
幼くして三齋公に侍し、三齋公の八代城入りに伴い八代城に入っている。「獻湯藥之勞」を執ったと記されているが、三齋公死去後は熊本に至り結婚、死別後宗嚴寺というお寺を創建している。
延寶九年(貞享元年=1688)だというから、66歳位になっている。寺地はまず京町台の岩立に創建し、のち寺原に移り、最終的には新坪井(現・坪井5丁目1)に在ったが、西南の役で焼失し廃寺となった。
俗名は熊(当家先祖附)、龍源禪尼と称したが、資料をよく読むと、「建九重石塔流長精舎」とある。
つまりこの記録を信ずると、流長院の九重の塔を建立したのは、当家初代の姪・俗名熊ということになる。
一度お寺をお訪ねして、寄進者の銘などないか調べてみようと思っている。

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■ふたたび咲く花

2024-05-04 13:52:47 | 徒然

 昨晩はTVをカチャカチャやっていたら、三屋清左衛門残日録「ふたたび咲く花」をやっていた。
時間的に少々頭が切れてしまっていたが、約一時間ほど焼酎片手にTV観劇とあいなった。
この作品は、「三屋清左衛門残日録」と、やはり藤沢周平の「山姥橋夜五つ」(麦屋町昼下がり・所収)を合体させたオリジナル作品だそうだが、北大路欣也や伊東四朗などの見事な演技に好感がもててあっという間の時間を過ごした。
藩重役が権勢を握ろうとする中で起きた事件は、ある侍の家庭を崩壊させてしまう。
かっての用人で御隠居身分の三屋清左衛門が、伊東四朗氏が演ずるところの親友で奉行の力を借りながら、事件を解決し、侍の家庭にふたたび花が咲いたという筋書きである。
昨晩は J・comで見たのだが、今晩は21時から「時代劇専門番組」で再放映されるらしい。

 藤沢周平の作品は粗方読んだが、文庫本でほとんどそろえていたが処分してしまっ。この作品の元である「三屋清左衛門残日録」だけは文庫本を購入して今も本棚に鎮座している。

TV観劇後、本を取り出して30分程読書をしたが、おかげで今日は目の調子が悪くていけない。
おまけに「下書き登録」のままにしていたので、UPが遅れてしまった。深謝・・・

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■次から次へと難題発生

2024-05-03 07:14:05 | ご挨拶

 昨日はひょっこりと、平成29年10月7日にくまもと文学・歴史館で行われた「砂取細川邸と顕光院」という講演のレジュメ
(A4版5枚10ページ)が出てきた。

読み進める内に、レジュメに書かれている先行研究や、現在図書館が建っている場所にあった細川家別邸に関する諸資料など、
この講演後に集めた一連の資料が見当たらないことに気づいた。

ここ数日の資料整理の中では見ていない。図書館南側にある細川家ゆかりの「希首座」を祀っているお社のことを書いた資料
も見当たらないから多分一緒にしまい込んでいる。

島田真富氏の「江津荘物語」や、「江津花壇」と呼ばれた一時期の建物の所有者・井関農機のことなども同様である。
顕光院様と娘・勇姫(松平春嶽夫人)のことなども調べたのに・・・見当たらない。
そうこう考えていたら、気になって仕方なく、ベッドに入ってもあれこれ考えて寝付かれなかった。

見つからないということは、ここ数日手を付けなかったところに隠れていることになる。
今日は所用で出かけなければならないが、なんとか見つけ出さないと頭の毛がうずく。
夕方には事の顛末を追記でご報告しようと思うが、さてまたあちこちひっくり返さなければならない。

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