堀内傳右衛門覺書
(1)
一淺野内匠頭様御家來十七人御預之節、右之輩請取に被遣候砌、我等迄も被指越候、其後御預中、林兵介、村井源兵衛、我等三人、
御附置被成候故、當番之刻、十七人之衆へ、心易物語申候、最同名共且又他之衆中も、望次第實體之志有之候はゞ、披見に可被
入候、惣體今度之一巻、むさと諸人に咄申さぬやうにとの事、
(2)
一元禄十五年午の十二月十五日、月次 御登城被遊候處、於 御城淺之内匠頭様御家來之内、拾七人御預之旨被 仰渡、芝泉岳寺
え、御侍中請取に被遣候段、従 御城、藤崎作右衛門上御屋敷御使者に被、我等折節當番にて、町屋敷え罷出居申候、定て御人
内にて可有之と存、直に同名平八方にて認等いたし、直に罷越、十五日未の刻前、上屋敷に出候事、
(3)
一三宅藤兵衛、蒲田軍之介、平野九郎右衛門、横山五郎大夫、堀内平八、匂坂平兵衛、右之衆中裏附上下、物頭、御小姓組迄は、
羽織袴着、芝御屋敷へ被参候、物頭皆共迄は、羽織裁付に而候事、左之人數、
三宅藤兵衛 鎌田軍之助 平野九郎右衛門 横山五郎大夫 志方彌次右衛門 原田十次郎 牧七右衛門 須佐美九太夫
匂坂平兵衛 富島伊兵衛 堀内傳右衛門 林兵介 池永善兵衛 寺川助之丞 本庄喜助 吉田孫四郎 氏家平吉 澤庄兵衛
堀内五郎兵衛 武田平太夫 石川源右衛門 田中隼人助 池部次郎助 横井儀右衛門 宇野彌右衛門 下村周伯 原田元澤
木村權左衛門 關彌右衛門 郡次大夫 堀内平八 野だ小三郎 村井源兵衛 松浦儀右衛門 塚本藤右衛門 魚住惣右衛門
服部番右衛門
此外にも有之候哉覺不申、歩御小姓も参申候得共、夫々名覺不申候、
(4)
一足輕百人餘、駕十七挺、外に用心駕五挺、人數都合七百五十四人と承り申候、
(5)
一御知行取不殘馬にて、御屋敷より罷越被申候、芝御屋敷表御門前にて、芝御屋敷詰に出合申合せ、泉岳寺え参申筈之處に、様子
替り、仙石伯耆守様御屋敷にて受取申筈に成り、彼御屋敷愛宕下に参候、此方様御人數は愛宕下細川和泉守様御屋敷に参り、御
門内には侍中斗入候て亥の刻邊に伯耆守様御屋敷に何も参り候事、此方様え之御預就を、一番に御渡し被成候、三宅・鎌田・堀
内三人、御預り之面々受取下さるべき旨被仰渡候、則伯耆守様御前にて鈴木源吾右衛門様、水野小左衛門様御列座にて被仰渡候、
其外は御門外に居申候事
(6)
一十七人之輩、伯耆守様被仰渡候者、夫々に書付を御よみきかせ、内蔵之介は御側近く被召寄、十七人は細川越中守え御預被成候
間、左様に心得候哉、乗物にて被遣候儀、いかゞ思召候とも、老人又は怪我人も有之、指向付添参申候為旁乗物にて参り候へは、
段々被爲入御念御事忝とたひ/\何も被申候事、
(7)
一十七人之衆、何れも駕に乗り、請取人は御門外に各夫々請取候て、御紋付の大挑灯二ツ宛、駕一挺騎馬一人、歩御使番一人宛付、
御使番不足分は、歩御小姓相勤、尤手負怪我人も有之駕を静に、細川和泉守様御門前より、松平隠岐守様御屋敷前、愛宕横丁に
出、芝伊皿子坂より目黒御門に入、役者間之御玄關より御廣間櫛形之次御間より、二座敷に被居申候、其夜はいつれも、先一つ
に着座有之候、尤道筋静に参り御屋敷え落付は、丑の刻過に相成申候事、
(8)
一右之面々を御渡之刻、乗物之戸窓なと明申者も候はゞ、其通に仕候て不苦被思召候、怪我人も候間、道も靜に参り候様にとの事
故、堀内傳右衛門と申者付添参候、何ぞ御用も候歟、乗物戸なぞ明け申たく思召候はゞ、被仰聞候へと、歩行之者へ申させ候事、
(9)
一太守様早速御出被遊候、受取人數も其儘居申様にとの儀にて、其所に罷在候、扨十七人え御意之趣には、扨各今日之仕方神妙に
存候、是に大勢之侍共差置候にも不及事何とやらんおこかましく候へ共、公義に對し差置候間、皆々左様に御心得何ぞ相應の用
事承候得と、番之御家來共之方を御覧被遊、最早夜更候間、先早く料理を給被申候様にとの仰にて、御入遊候、いつれも忝奉存
られ候體に見え候、夜更まて御待被遊、早速御對面被成候事、いつれも後々まて有かたかり被申候事、
(10)
一其夜其儀御對面被成候は太守様迄ㇳ承り、殘御三人御衆は以後に此方様御問合被成御逢被成候由、
(11)
一於御城十七人御預之節、被仰渡候刻も、此方様御請、御尤成御儀と、となたも御感被成たるとの御沙汰、御旗本の咄を、壽命院
なとの咄し被申候段、江村節齋申候、十七人の輩を、泉岳寺へ御受取被遊候やうにとの儀に付、 太守様被仰候は、家來共迄へ
遣候事、無心許被思召、御下城以後不苦候はゞ、御自身御出被遊度と度々被仰出候由、然とも夫には及申間敷、御家來迄被指出
候様にとの儀に付、向様も御家來まで被指出候由、此趣御尤之儀と沙汰有之候由承り候、
熊本史談会の11月例会では、中央義士会の理事で熊本県山鹿市在住の宮川様をお迎えして「「日輪寺と赤穂義士」〜忠臣蔵と肥後〜」をお聞きする。
再来年は堀内傳右衛門の没後300回忌ということもあり、傳右衛門を顕彰する日輪寺の地元・山鹿で「忠臣蔵サミット開催・シンポジューム・忠臣蔵展」などの催しを計画されている。
湯の町・山鹿の人々は熱く燃えておられる。
私はと言えば、「堀内傳右衛門覺書」や「御預人記録」などはタイピングをしていたから、お役に立てばUSBに落としてお渡しできると考えていたら、これが見当たらない。
ブログ内検索をかけたら「■消えた 「堀内傳右衛門覚書」 に代えて」という記事が出てきて、記録を失っていた。「旦夕覺書」はちゃんと保存している。
そこで再び「堀内傳右衛門覺書」をタイピングして、今度はちゃんとUSBに落として保存しようと思う。
明日からそのタイピングの過程をご披露しようと思う。「肥後文献草書第四巻」p289~340までの51頁ほどだがひと月もあれば終わらせることができるだろう。
後半部では妻が退院してくる可能性が強く、若干の余裕が必要かもしれない。
先日体重計に乗ったら66.9㌔を表示したので、さすがにまずいと思い、何とか三食ちゃんと取ろうと努力している。
この夏の暑さは82爺には大いに応え、73㌔半ばをキープしていた体重がどんどん落ちてこのありさまである。
久しぶりの夏痩せを心配して、先に病院に薬もらいの定期診療でDrに話をしたら尿と血液検査をしてくれて、特段悪い結果は見えなかったが、後日胃カメラ・腹部エコー・大腸検査をしていただくことにした。
妻の入院生活が三ヶ月を過ぎ月末位には退院の運びとなるのではないかと思うのだが、高次脳機能障害者の妻をフォローしていかなければならない。
のんびり読書や古文書に親しむというわけにはいかないようだ。
まずは体力を付けておかなければなるまいと、何とか食事をちゃんとしようと思うが、なかなか食欲が戻らない。
最近インターネットでジーンズを1本購入したのだが、ウエストを元のままのサイズで購入したがワンサイズ落としておくべきだった。
6㌔もやせるとさすがにこうなる。食欲が戻るとジーンズのウエスト回りもちょうどよくなるだろうが・・・
熊本史談会でお話しする資料を作成する中で、オークションを主として買い集めた史料がたくさん出てきて、終活対象物件だなと思ったことだ。
主に熊本地震後流出が顕著だった「米田家資料(私の命名)」が随分ある。投資した金額も結構な額になっている。
しかしあまり自分で死蔵させてしまうような思いは全くなくて、しかるべきところに引き取っていただければ寄贈したいと思っている。
そろそろ、リストを作り写真などを添付して準備に入りたいと思い始めた。
まずは、朽木定彦氏(細川齊茲公末弟が朽木家養子、その嫡子)の朽木家類続間での「順養子問題」のガチャガチャ振りを記した資料(結果として定彦氏はこれを嫌い、刑部家の養子となった)とが、5,000両の借金の家臣21名連署の安永五年の申込書など、宇土細川家関連の文書がある。
まずはこれらを手始めに、先様にご連絡をして御届をしたいと思っているが、どこに収めるのが一番かを考えるのに頭を悩ましている。
■宇土細川家・借銀に関する書状 一点
■米田家御屋敷図 605×475 一点、372×282に132×62貼付け ニ点
■指物(図) -沢村宮門 一点
■甲立物幕之紋定紋附 -沢村宮門 弘化三年十二月 一点
■指物附 -鎌田軍助 天明六年閏十月 一点
■甲立物幕之紋定紋附 ー續 繁弥 天保二年十月 一点
■指物附 -續 繁弥 同上 一点
■甲立物幕之紋附 -牧 佐学 天明四年閏正月 一点
■分明印 -長谷川新右衛門 安永六年四月 一点
■甲立物幕之紋定紋附 -藤崎喜八郎 文政七年八月 一点
■兜立物指物幕紋定紋差出 -宇野忠左衛門 安永二年正月 一点
■甲向立物幕之紋圖 -稲津角之允 文久元年八月 一点
■差出 -竹原権助 寛政十年十一月 一点
■覚(切支丹宗門改に関するもの)-津田平助 嘉永四年亥三月 一点
■覚 同上 -宮村益太 文化丁夘年五月 一点
■切支丹就御改仕上起請文前書 -松野又右衛門(宗岳寺裏書)文久四年四月 一点
■米田是福自筆書状 (宝暦六年比之御筆と奉考之) 一点 (妙應院様御直書之内御国之歴々・・)
■米田是長自筆書状 宛名・左近殿 一点
■監物縁組之節願之儀・・・ 一点
■御自筆写 両方ゟ願として罷越候節御用番様御手数之続 一点
■有吉立行・興道・英貴・英安・貞之に関する手控え? 一点
■寛永年中御鷹場御拝領以来之趣下志らへ 冊子 一点
■覚 (寛永十七年・三家に鷹場お分け・・・) 控 一点
■職五郎様江御祝儀 一点
■八代朽木家取扱之扣写 冊子 一点
■朽木定彦順養子に関わる書状 ー朽木内匠 一点
■ 同上 -長岡監物 一点
■ 同上 - 定彦 一点
■ 同上 -署名無し・定彦か 一点
■天明四年・御供立被減候覚 冊子 一点
■地獄極楽御倹約仰出事 一点
■覚 天保十一年 一点 (監物家来中井・・・)
■覚 長岡監物宛楯岡源左衛門 天明七年八月 一点 (薮田斉の御奉公について)
■「二丸江御一門衆御家老衆表玄関ゟ 云々」 一点
■書状 長岡左近様あて 細川左京(尚房) 一点
■口上書 ー山田淳助 寛文九年十月 一点 (志水才助儀立田之内山口・・・)
■御改正以来大御目附衆人数 一点
■御達 御右筆所之儀 一点
■湯治心得 明治五年二月 熊本縣医學校 一点
落穂ひろいという言葉思い出すコメ不足 津々
つい一週間ほど前までは、近所のスーパーストアでもコメ不足状態であったが、最近は平積みの山ができていてなんだかほっとさせられる。
一方では古古米などがインターネットで売られたりしていて、今年のコメ不足状態の一端をうかがわせている。
「落穂ひろい」という言葉を思い出すとともに、ミレーの絵なども頭に浮かんだ。
私くらいの年齢の人は、「落穂ひろい」を経験された方は結構多いのではないかと思う。
私が幼少期を過ごしたところは、余り田んぼが広がる場所ではなかったが、友達のI君は家がお百姓さんだったから、秋の刈り入れ時一度だけ遊びに行ったときに手伝った覚えがある。
帰りにはその落穂を持たせてくれたが、二三日(?)縁側で干したのち祖母が一升瓶に入れて棒でついていたことを思い出す。
一合にも満たない量だったとは思うが、獲れたての新米を食したという事になる。
江戸時代の下級武士は「扶持米」というものを頂戴した。一人一日五合を例えば三人家族であれば「三人扶持」といった具合だが、一日二食の時代であれば食べるだけであれば十分すぎる。残りは「銭」に換金したのだろう。野菜や味噌醤油や薪木などの購入に充てられた。
知行取の家でも、主人が若死にすると幼い男子があってもこれが成人するまでは、「扶持米+合力米」を頂戴する身分となる。
我家にもそんな時代があってご先祖の苦労のほどが偲ばれるが、「五人扶持五石」等という記録が残る。
男子が十五歳ほどにもなって知行が旧に復すると、大いにお祝いをしたのであろう。
今年のコメ不足減少はわずかの期間だったが、やや慌てふためいたことを瑞穂の国の民だなと感じたところである。
こないだ買った2㌔の不洗米がそろそろ底をつくからまた買いに行かねばならぬが、店先には新米が山済みでもう心配することはない。
農業機械の進歩で今の時代「落穂ひろい」などは全くないのだろうと思うが・・・如何。
期日:令和6年10月19日(第三・土曜日)午前9時45分~
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(
講題:熊本城と加藤忠廣ー最新の調査研究の成果からー
講演:熊本城調査研究センター文化財保護主任主事 木下泰葉氏
一般参加自由:
連絡不要、但し当日参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
お問い合わせ:090-9494‐3190
今日の午後石破内閣は衆議院を解散することになった。短期決戦と自民党のいわゆる裏金問題議員の後任問題などで、選挙後の議院の構成がどう変化するのか、またその後の自民党がどうなるのか、いずれにしても大変化が起こる予感がする。
そんな中、今日の熊本日々新聞は石破首相のルーツに触れる記事を載せている。
石破首相はキリスト教徒(プロテスタント系)を公言されているが、これは御母堂の影響を強く受けて居らるるようだ。
御母堂は明治期の「熊本バンド」の有力メンバー・金森通倫の直系の嫡孫にあたられる。
石破氏は肥後のモッコス精神と曽祖父・通倫の熊本洋学校で学んだ生粋の同志社のクリスチャン魂を兼ね備えられていることになる。
一方Yahooに記事・東洋経済on-lineに「持論を現実に」信仰という石破首相が持つ力著名な宗教家だった曾祖父から受け継いだDNAが掲載されている。
内容は一部熊日の記事と重複するところがあるが、作家・佐藤優氏(元外務省・情報分析官)の講演内容が引用されているが、氏は同志社で学び石破氏と同様「プロテスタント・カルバン派」だから、石破氏の行動原理がよくわかるとおっしゃっている。
そして、アメリカのトランプ氏も又「カルバン派」であり、「石破さんとトランプは(パソコンの)OS(基本ソフト)が一緒」といい、トランプ氏が11月の大統領選で再当選すれば「意外と波長が合うと思う。」と講演で述べられている。
お二方とも選挙の結果次第でどうなるのか判らないが、結果は神のお導きということだろう。
トランプ氏も石破氏も一徹なところは良く似ている気もするが、幼いころから過ごした教会での教えは生きる支柱になっていると佐藤氏は仰る。
石破首相には「肥後モッコス」精神も加わっている。
熊本史談会の5月例会で阿田俊彦先生の「儒学、その変遷」をお聞きして少し勉強を始めたが、泥田に足をとられて七転八倒の有様である。
幕府が「朱子学」を官学と定めると、細川藩に於いては「陽明学徒の追放事件」がおきた。綱利の時代寛文年間のことである。
綱利にとっては叔父にあたる長岡元知(忠利末子)が、処分の厳しさに諫言して蟄居処分を請け、それは実に年に及んだ。
「朱子学」と「陽明学」との違いくらいは判りたいと、小島毅著「朱子学と陽明学」を読んでいる。
長岡元知のDNAは、奥方が三卿家老米田家の是長女・吟であるため、その子・是庸が是長の継嗣子となり継承された。
私は、三卿家老の内、松井家・有吉家の保守勢力に対し米田家は「物言う家柄」ではなかったのかという気がしている。
幕末、米田是容の時代に至り、横井小楠らと藩校時習館の改革に乗り出し、其のグループは「実学党」と称することになる。
後に、実学党は是容の「坪井派」と、小楠の「沼山津派」に分かれることになるが、いわゆる大學章句にある「明徳明」と「新民」の解釈による対立が発端だとされる。
それは是容と小楠の直接対決ではなく、小楠の弟子・矢嶋源助(直方)と是容の家来・久野正頼の意見の対立が事の発端であると、蓑田勝彦氏は論考「横井小楠と米田監物」(史叢10号)で書いておられる。
その要は「乱に於いて命をかけるというのであれば、治においてもそうであるべきだ」という事に尽きるのではないか。
久野は小楠のでしでもあるのだが、自分の非力を思い知ったとその著「千日鑑」に書き残している。
その後、源助は津田山三郎とも論争しているが、論点の合一には至らず弐派に別れたとされる。
君上に仕える「明徳」派と、人民の在り方を重視する「新(親)民」派とでは、この決別は当然の帰結であったのかもしれない。
私はふと、水俣病の問題が明らかになったとき、渡部京二や石牟礼道子らと行動を共にした本田啓吉が「敵が目の前にいてもたたかわない者はもともとたたかうつもりなどなかった者である。」と言ったことを思い出した。
まさに親民派と同じ考え方であり、そんな人間は「従順に体制の中の下僕か子羊になるがよい」と言い切っている。
この言葉は堪える。
織田信長文書の世界 永青文庫珠玉の六〇通
今日から、永青文庫では新たに発見された信長の書状を含めて、展覧会が催されている。
熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念「信長の手紙」展
会場:永青文庫(東京都文京区)
会期:令和6年10月5日(土)〜12月1日(日)
https://www.eiseibunko.com/exhibition.html#2024aki
先にも書いたが、熊本でも開催されることを待ち望んでいるが、今回の東京での開催に当たって図録が出るだろうと思っていたが、これがそうなのか判らないが発刊された。
未だ、Amazonでも取り扱っていないように思える。あわてることはないが、楽しみにしている。
この本の存在はもちろん知っている。自分でも所蔵していると思い込んでいたが、ヤフオクにこの品が出たとき改めて確認したが所蔵していなかった。
これはどうしても落札しなければと勢い込んでいたが、応札者が他にはなく無事落札して今日手元に届いた。
編者の松本寿三郎氏の昭和44年から平成7年に至る、いろんな雑誌に掲載された論文を13章にまとめられた。
内容については掲載された雑誌のいくつかを読んでいるから、半分ほどは承知している。
明日から気温が急激に落ちて、雨模様が一週間ほど続くという。
せいぜい、風邪をひかぬようにしながら、13日かかりで精読したいと思う。安く手に入れられて有難かった。