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「考える宗教」の素材は、聖書のはじめの部分からすでにありますよ。
「若者よ、聖書を知れ!」で取り上げました、創世記の最初のところにも、実は、無視しがたい大きな課題があります。
「創り主は『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう・・・』と仰せられた」 (創世記、1章26節)
~~がそれです。
ここで、創り主は「われわれ」といっています。
われわれ、は複数です。 そして、「われわれ」というかぎり当の「創り主」をも含んでいるはずでしょう。
このわれわれとは、一体誰なんだ?
この疑問は当然起きますよね。
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福音先進国・アメリカの教職者にとっても、これは難問なようです。困ってきた様子が手に取るようにみえます。ほとんどすべての神学者、牧師さんなどの教職者がこのわれわれを「父なる創り主、子なるイエス、聖霊」の三者だということにしています。「これは三位一体の神だ」ということにしている。
だが、そうすると問題が出るのです。
父なる創造主は無限の空間的広がりを持った、無限者です。
こういう存在の「かたちに似せて造った」のが人間ならば、人間も無限の大きさを持った存在に造られたはずではないか~~こういうことになります。
で、困ってしまってワンワン、ワワン。
仕方ないので、この「われわれのかたちに似るように」は、「われわれのイメージで」という意味だ、とせつめいしています。かのベニーヒンでさえも、これです。
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しかし、こういう風に、無理が出てくるのは、そもそも何かおかしい証拠です。
「若者よ、聖書を知れ!」で取り上げた、アダムを造るところにも、実は鹿嶋とは別の解釈をする人が多数派です。つまり、最初に創られた人間の中の一人がアダムだ、と解釈している。
ところがこうすると、最初に創られた人間とアダムとは同じ存在になっていきます。そうすると、そのあとの創世記6章1~4節の聖句が、何を言っているか、さっぱり意味が通じなくなるのです。
その結果、この部分は、原典(ヘブライ語で書かれている)とかけ離れた英訳になってしまっています。邦訳聖書はそれにならっていますから、日本でも同じです。
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この「われわれ」も解釈がおかしいのではないでしょうか。だから、「われわれのイメージで」人間を創った、といったような、原典とかけ離れた解釈が出てきてしまうのではないでしょうか。
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では、もっと筋が通りやすい解読は何か?
前回の<どうしてイエスだけが「子」なんだ?>で引用しました、聖句をもう一度みてみましょう。
「創り主は、御子を万物の相続者とし、
また、御子によって(through Him)世界を造られました」
(ヘブル人への手紙、1章2節)
この「世界(the world)」は、われわれの住むこの世、創世記で創られる様が描かれている宇宙も含めた世界です。
すると「えっ?」となりませんか?
創世記でこの世を創っているのはイエスだ、とこの手紙の著者(パウロ)はいっているんだから。
「父なる創り主」ではなかったの?!
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ヨハネによる福音書の著者、ヨハネも同じことを言っています。
「・・・世はこの方(イエス)によって創られたのに、世はこの方を認知しなかった」(ヨハネによる福音書、1章10節)
~~~パウロもヨハネも、創世記を字面だけで理解してはいないのですね。彼らは聖句を「考えた」。そして創世記で世を創っていく存在は、実はイエスなのだ、という解読をしているのですね。
こういうふうに、字面の裏に隠されたより深い意味を「奥義(辞書には「おうぎ」と書いてありますが、「おくぎ」でいいでしょう)」といいます。
パウロもヨハネも、「考える宗教」をしていたのですね。
で、このわれわれの、イエス以外の存在は誰か?
長くなりましたので、次回に「考え」ましょう。