(前回からの続きです)
創世記で、人間を創っていくところ。
この創る側の「われわれ」がイエスとイエスに付き従う天使だったとしたら、さらにどうなるか、というのが今回の話題です。
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なんといっても興味をそそるのは、第一に「人間が創られる以前に、人間の形をした存在がいた」ということですね。
第二は、さらに「その存在が、自分たちのかたちに人間を創った」ということです。
従来、そういうようなはっきりしたイメージはありませんでした。だから、クリスチャンのひとも、イエスがこの地上にやってくる前の形もはっきりイメージに描けなかった。描くとしても、なにかぼんやりした霧のような、あるいは大きな火の玉ようなものかなぁ~といった程度でした。
それが一変します。
まず、「イエスが人の子としてこの世にやってきた」ということへの理解が異なってくる。なにか人間と別の形をしていたが、わざわざ人間の形になって、この世にやってきたのではないのだ、と。そういうことになります。
1.イエスはもともと、人の形をしていた。
2.そして、その自分の形に人間を創った。
3.さらにそうしておいて、自分の形の肉体をとってこの世に現れた
~~~ということになります。
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それがどうした?
そんなこと、わざわざ「考える」必要のあることか?
それがありそうなんだよね。
だけど、そのことは次に考えるとしましょう。
まずは、「われわれのかたちに人を創った」の「われわれ」は、「父、子、聖霊」よりも、「イエスと天使」の方が、筋の通りがよろしい、ということで、「われわれとは?」に関する「考える宗教」はここでとどめることにしましょう。