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=聖句=
「そこでイエスは彼らに言われた『わたしが教えていることは、わたし自身の教えではありません。わたしをつかわした方の教えなのです』」(7章16節)
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前回述べたような理由で、“仮庵(かりいお)の祭り”の前半にはイエスは姿を現しませんでした。エルサレムの神殿広場では、“イエスが見えないが、どうしたのか”、ともっぱらの話題でした。
ある者は「あの人はいい人だ」といい、別の者は「いや、民衆を惑わしているだけだ」という。とにかく、あれこれ言いながら、イエスの出現を期待して待っておりました(11~2節)。すでに、人気は鰻登り・・・。
ただし、こういうやりとりは、ひそひそ話でなされていました。国家権力を持つユダヤ教の高官たちから、罰せられるのを恐れてのことでした。そうこうしているうちに、仮庵(かりいお)の祭りも期間の後半に入ります。
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そんなことで、今回はもうイエスさんは、来ないのかなあ、とあきらめかけた。そこに、イエスはあざやかに登場いたします。(拍手!)
そして、颯爽と教えを述べ始めました。その見事さに、伝統宗教であるユダヤ教の高僧たちは驚きます。「彼は、聖書学校で学んだことがない。なのにどうしてこんなに律法の知識を持っているんだ?」と(15節)。
イエスには、こういうつぶやきはみな聞こえてしまいます。そこで語ります。
「私が教えている内容は、私をつかわされた方(創造主)が教えてくださったことなんだよ」
~~と。そして
「創造主の御心を行おうとしている者には、そのことがわかるんだけどね」
~~といいます。
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ここは、意味深いところです。イエスは、人間が持つところの考えを、二つに分けてとらえているのです。
一つは、自分の心をむなしくしておいて、それを創主の考えでもって充たすという、そういう状態において持っている考えです。もう一つは、創主に対する意識はなくて、自分の個人の信念として抱く考えです。
前者は、聖書でいう「信仰(信頼)ある人」の意識状態を示しています。
つまり、彼の意識は、創造主の信念でもって充たされている、自分個人の信念は混じっていない、という状態なのです。自分を空しくしている状態というのかな、こう言うのを・・・。
イエスは後に~~
「私の言葉が、あなた方のうちに留まるなら・・・」
~~~といいます。そのイエスの言葉が内に留まった状態が信頼心ある状態なんですね。そして、上記の「創造主の御心を行おうとしているもの」とは、そういう人を指していっているようです。
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後者は、それと対照的をなしています。日常用語では「信念の人」といったらいいかも知れませんね。そこには、創主の言葉、(すなわち、聖書ではそれは父なる創主からの考え、となっているのですが)が住む余地はあまりありません。
どうしてか。そこには、彼自身の人間的な信念が満ちているから、ということになります。こうなると、創主の言葉を学んでも、彼の意識は、それを無意識のうちに外に押し出してしまうんですね。
すると、その人は「創主の御心を行おうとはしてはいない人」となるでしょう。ともあれそういう人の意識の内には、「創主から出ている」教えがありません。
そこで、イエスの教えが創主からのものだとしますと、共鳴する要素が全く意識の内にないということになるのですね。「ああこれは創主からの教えだなあ」と共鳴させるものが自分の心の内にない。
だから「わからない」となる道理です。