~~Leafさんから、コメント欄に質問をいただきました。
ありがとうございました。
これも、クリスチャンの方には自然な疑問だと思います。

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Unknown (Leaf) 2005-10-18 16:02:31
先生こんにちは。
>心霊科学に『ブルーアイランド』ハート出版、という研究成果の本があります。
そこでは、死んだ人の霊とこの世で生きているその娘との交信記録が書かれています。
お聞きしたいのですが、こういう心霊現象は「悪霊の惑わし」である可能性もあると思いますが、それについては、いかがでしょうか?(つまり、「死んだ人の霊」だと思ってていたのは、実は、悪霊がなりすましているものだった、という考え方です)
+++
~~その「可能性」はゼロでないと思います。
そこで聖書(聖句)に最終的な信頼を置く人(鹿嶋もそうですが)は、聖句に矛盾するものは採用しない、ということになると思います。
心霊現象を踏まえて推論していった結果が、聖句に矛盾することもあるでしょう。それも同様に、採用しないわけです。
+++
問題は、聖書がカバーしていないところ、したがって、一致も矛盾もしないところをどうするか、でしょうね。
聖句から、どんどん推論を伸ばしていって、「・・・だろう」という考えを持つのも一つの方法です。
その際、心霊科学の成果を推論の手がかりにするのも、一案ではないかと思います。
心霊「科学」は、経験科学の方法をとっています。
いつも五感で確かめられる情報を起点に考えるという方法ですね。
そのうちでも、徹底しているもの、信頼の置けそうなものを選択的に採用するように鹿嶋はしています。
けれども、これも絶対に正しいという判断にはつながりません。科学の知識はすべて仮説(・・・ではなかろうか、という余地を残した命題)です。だから、それが聖書でカバーしていないところを埋める、絶対的なもの、聖句と同等なものだとは考えないのです。
あくまでも「・・・じゃないかなあ・・」というニュアンスですね。
+++
自分の頭で推論することもしない、科学的研究の成果を手がかりにするのも怖いからしない、というのがほとんどの日本の牧師さんの姿勢です。それもいいでしょうが、それですと、もう聖書がカバーしていないところについては、何も言えなくなってしまうわけです。
それもいいかもしれません。だがそうすると、「福音など伝わってない社会に生まれて死んだ人には、不公平じゃないか」という疑問にも答えられなくなるでしょうね。牧師さんの場合は、教会員さんからのそういう質問には逃げ回るしかなくなるわけですね。
すると、「真理(福音)はあなたを自由にする」という聖句と矛盾してきます。恐怖で、考える自由をなくしてるんですからね。自分が教わったことを超えるのが怖い。業界の皆さんと違うようになるのが怖い。で、考える自由を閉じこめる。これでは、福音で自由にされてはいないわけです。
+++

大事なの次のことではないでしょうか。
霊的な情報、霊感で受けたメッセージを、やみくもに怖がると、そうなるということです。
さらにまたそういうことならば、聖書の著者に与えられたメッセージまでもが、なにか別の霊からの惑わしではないか、という疑問も成り立ってしまうのではないでしょうか。そもそも旧約聖書の預言者に与えられたメッセージも、何か他の霊からの惑わしではなかったか、と。
すると、聖書の中の言葉そのものも、なにか得体の知れないものから与えられたものかもしれない、ということにもなりかねません。
にもかかわらず、我々はなぜ聖書の言葉を最終的な思考の手がかりにしているのか。これは、一度考えるに値することと、鹿嶋は思っています。
(霊的なものをすべて怖がる、という姿勢は、聖句の霊的な解釈を怖がり、道徳的な知恵、人生の知恵のみに解釈し、日本のキリスト教を結果的に道徳教にしている一因でもあるのでは・・・)
ありがとうございました。
これも、クリスチャンの方には自然な疑問だと思います。



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Unknown (Leaf) 2005-10-18 16:02:31
先生こんにちは。
>心霊科学に『ブルーアイランド』ハート出版、という研究成果の本があります。
そこでは、死んだ人の霊とこの世で生きているその娘との交信記録が書かれています。
お聞きしたいのですが、こういう心霊現象は「悪霊の惑わし」である可能性もあると思いますが、それについては、いかがでしょうか?(つまり、「死んだ人の霊」だと思ってていたのは、実は、悪霊がなりすましているものだった、という考え方です)
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~~その「可能性」はゼロでないと思います。
そこで聖書(聖句)に最終的な信頼を置く人(鹿嶋もそうですが)は、聖句に矛盾するものは採用しない、ということになると思います。
心霊現象を踏まえて推論していった結果が、聖句に矛盾することもあるでしょう。それも同様に、採用しないわけです。
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問題は、聖書がカバーしていないところ、したがって、一致も矛盾もしないところをどうするか、でしょうね。
聖句から、どんどん推論を伸ばしていって、「・・・だろう」という考えを持つのも一つの方法です。
その際、心霊科学の成果を推論の手がかりにするのも、一案ではないかと思います。
心霊「科学」は、経験科学の方法をとっています。
いつも五感で確かめられる情報を起点に考えるという方法ですね。
そのうちでも、徹底しているもの、信頼の置けそうなものを選択的に採用するように鹿嶋はしています。
けれども、これも絶対に正しいという判断にはつながりません。科学の知識はすべて仮説(・・・ではなかろうか、という余地を残した命題)です。だから、それが聖書でカバーしていないところを埋める、絶対的なもの、聖句と同等なものだとは考えないのです。
あくまでも「・・・じゃないかなあ・・」というニュアンスですね。
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自分の頭で推論することもしない、科学的研究の成果を手がかりにするのも怖いからしない、というのがほとんどの日本の牧師さんの姿勢です。それもいいでしょうが、それですと、もう聖書がカバーしていないところについては、何も言えなくなってしまうわけです。
それもいいかもしれません。だがそうすると、「福音など伝わってない社会に生まれて死んだ人には、不公平じゃないか」という疑問にも答えられなくなるでしょうね。牧師さんの場合は、教会員さんからのそういう質問には逃げ回るしかなくなるわけですね。
すると、「真理(福音)はあなたを自由にする」という聖句と矛盾してきます。恐怖で、考える自由をなくしてるんですからね。自分が教わったことを超えるのが怖い。業界の皆さんと違うようになるのが怖い。で、考える自由を閉じこめる。これでは、福音で自由にされてはいないわけです。
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大事なの次のことではないでしょうか。
霊的な情報、霊感で受けたメッセージを、やみくもに怖がると、そうなるということです。
さらにまたそういうことならば、聖書の著者に与えられたメッセージまでもが、なにか別の霊からの惑わしではないか、という疑問も成り立ってしまうのではないでしょうか。そもそも旧約聖書の預言者に与えられたメッセージも、何か他の霊からの惑わしではなかったか、と。
すると、聖書の中の言葉そのものも、なにか得体の知れないものから与えられたものかもしれない、ということにもなりかねません。
にもかかわらず、我々はなぜ聖書の言葉を最終的な思考の手がかりにしているのか。これは、一度考えるに値することと、鹿嶋は思っています。
(霊的なものをすべて怖がる、という姿勢は、聖句の霊的な解釈を怖がり、道徳的な知恵、人生の知恵のみに解釈し、日本のキリスト教を結果的に道徳教にしている一因でもあるのでは・・・)