鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

自然な疑問に思います

2005年10月12日 | 「考える宗教」へ

質問です☆ (Lazy-cat)

2005-10-12 13:55:11

こんにちは。いつも読ませていただいています。
今日のところに関して質問なのですが、救われるチャンスはどの人間にもあるんですよね?でも、例えばザビエルが来る前の日本人はキリスト教を知りませんよね?彼らにもチャンスはあるんでしょうか?
すごく屁理屈みたいで変な質問でごめんなさい。


            




Lazy-catさんへ

 ちっとも屁理屈でないと思います。
ごく素直で、自然な疑問で、鹿嶋もこれを考えてきました。
「考える宗教へ」の代表的なテーマではないでしょうか。


 今の鹿嶋は、輪廻(生まれ変わり)を考えていく、というところにたどり着きつつあります。いわゆる「救われないで」死んだ人に、輪廻があれば、チャンスは与えられる可能性が出るわけですよね。

 この問題、今のテーマが終わったら、考えましょう。
楽しみにしてくださいね。

   鹿嶋 春平太


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエスにだって限界が

2005年10月12日 | 「考える宗教」へ
                  



 前々回、人間が悪魔にだまされて「知識の木の実」を食べるのは織り込み済みであったと解読しました。そうならないと、イエスが悪魔のわざを滅ぼす舞台ができあがらないからだ、と言いました。

 そして前回、創り主(霊としてのイエス)は、そうなるのを織り込み済みで人間を創ったという解読をしました。イエスは、人間社会を舞台にして悪魔のわざを滅ぼすことになるからだ、といいました。

 すると、「これは人間道具論だ!」という批判が出るだろう、とも。

+++

 けれども、なんの理由もなく人間を創ったというのは、もっと理不尽ではないでしょうか。人間が罪を犯すように創られていたのなら。罪を犯して不幸な人生を送るようにあらかじめ創られていたのなら・・・。

 もちろん、聖書では、その一部が最終的には救われて天国で永遠の幸福をうる、という論理が展開しています。だけど、救われない人も出るのです。永遠の不幸の中で暮らす人も出るのです。

 まえに、あるビジネスマンの見解をお知らせしましたね。
教会で、説教中に爆睡するおとうさん・・・。

 「救われる人と救われない人がいるのなら、自分だけ救われたいとは思わない・・」
その見解の故に、教会で説教される教えを受け入れられないのでしたね。

 その背景には、やはりこの不条理感があるのではないでしょうか。つまり、救われない者も出るような存在なら出現させない方がよかったのではないか、そういう存在を「必要もないのに」創ったというのなら、それは理不尽ではないか、という気持ちが。

 20年余も前の話ですが、鹿嶋にはこんな経験があります。
 小学校に入ったばかりの頃の幼い女の子に、一般的な聖書の物語を話したことがありました。それを聞いた彼女が反射的にいった言葉が忘れられません。
 
 「カミサマずるーい。遊んでる・・・」

 幼い子どもの心からでた、素直な感想です。
 これは自然ではないでしょうか。

+++

 それに比べれば、人間が創主の何かの必要のために創られたというのは、理不尽の度合いが小さいように思えないでしょうか。悪魔のしわざを滅ぼすための舞台装置として必要だったから創られたというのは、理由なく創られたというよりも・・。

 とにかく、人間が創られた理由、存在の理由が出るのです。

 そして、この解読は、「救われる者と救われない者とが出る」ということにも、一つの理解を提供してくれます。

+++

悪魔は、人間のすべてを一旦自分の支配下に入れていますよね。その状態でそのうちの誰かが、(イエスの言葉を受け入れて)天国と同質の空間に移っていく。これが惜しくてならなくなるのですね。

 一度手に入れたらみんな独り占めにしたい。これが「どん欲」で、英語ではグリード(greed)といいます。どん欲は悪魔から出る意識なのです。

 そこで、悪魔はイエスへの殺意を行動に移していくわけですね。本性上そうせずにいられなくなる。

 なのにもしイエスが、簡単に全員を救ってしまったらどうなるでしょうか。もう、悪魔には支配下に置く人間がいなくなります。そうしたら悪魔のどん欲も出場所がない。イエスの働きに妨害を入れる意欲が出なくなってしまう。やはり、少しずつ救われていく状況があることが舞台装置として必要なわけです。

+++

 もちろん、イエスが十字架で殺されるという事件は、二面の効果を持つことになっています。悪魔の本性の証拠があがることでもあると同時に、人間に、救いを受ける「道」も開きます。だが、実際に人間が救いを受けるのは、この事件に関わるイエスの言葉を受け入れたら、という条件付きです。

 そうすれば実際の話、受け入れない人はでるでしょう。
残るでしょう。

 でも、救われる「チャンスは人間全員に対して創った」のです。悪魔のわざを滅ぼさねばならない立場にあるイエスが出来るのは、そこまでです。それ以上は出来ない。出来ないのは仕方ないのでは・・。

+++

 これで、「救われる者と救われない者が出る」ということに、ある程度納得できるようにならないでしょうか。そういう風にしか作れなかった、と。それで理不尽感は解消しないでしょうか。

 鹿嶋は、こういう解読にたどり着いて、少し解消しました。
 そういうことなら、仕方ないかなあ・・・、と。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする