創世記の冒頭には、考える素材がいっぱい。
こんな短いページの中にまだまだあります。
前回の「悪魔の子孫、女の子孫」の聖句に続いて、こんな聖句が続きます。
「彼はおまえの頭を踏み砕き
おまえは、彼のかかとにかみつく」
(創世記、3章15節)
「彼」がイエスで、「おまえ」が悪魔であることは、前回までの解読で明らかになりましたね。
そうすると、あとは「頭を踏み砕く」と「かかとにかみつく」となりますね。
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頭を踏み砕かれたら、蛇は死にますね。
でも、悪魔は霊ですから、蛇の物的な身体のように、死んで消滅することはありません。すると、何か「致命的な」打撃を与えられる、ということを比喩的に表現しているととるほかありません。
そして、イエスが悪魔に致命的な打撃を与えるとなれば、それは彼の十字架死というのが聖書の論理でしょうね。
悪魔の影響を霊的に受けた「おまえの子孫」、すなわち、悪魔の影響を受け、悪魔の側にたった働きをしてしまう人間たち~~その代表はイエスの時代のユダヤ教の僧侶たちです。彼らはイエスのなす事すべてを妨害しようとする。ついには「イエスを十字架刑にかけよ!」と、民衆が合唱するように扇動する。
こうして、悪魔はイエスを十字架刑で殺してしまいます。
それで、悪魔は勝ったか?
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そうはイカンザキ!
悪魔はそれによって、自分が創り主の子に殺意を抱き、実際に殺す存在だということを証明してしまうんですね。創り主は天の王国の最高位の存在、究極の主人ですよ。
それまでは、こういう言い逃れも可能でした。すなわち、「天の王国で、配下の天使たちに自分を讃美させたのは、まあ、ほんのお遊びでした」、と。天国の王である創り主に殺意を抱くなんて、とんでもない、と。
「ちょっとだけよ~」「ちょっと遊んだだけよ~」と。
だが、一旦天国の中に自分の王国を、たとえ小さなものでも造ろうとしたら、もう創主から放射されているいのちエネルギー吸収されません。それどころか、自分の王国を造ろうというのは、不従順を超えた意識です。アダムは単なる不従順でしたけれど、この天使の場合は創り主に対抗して自分の王国を作ろうという対抗意識です。これは意識の中にいのちと対極の「死のエネルギー」造り出してしまいます。
こういう風に、この天使長の意識は結果的にエスカレートしてきてしまっているんですね。自然に意識も変質して殺意を抱くまでになっていく。でも、それは表に現れなかった。
ところがイエスを殺すという行為にそれが現れた。証拠があがってしまったわけです。
証拠があがれば、裁判で判決することが可能になってしまいます。
悪魔に有罪宣告をすることが出来るようになりました。
だから、十字架刑で殺されるのを前にして、イエスは言うんですね。
この世の支配者(悪魔)がいま裁かれる、という主旨のことばを(ヨハネによる福音書)、16章11節)。
あとは、刑の執行を待つのみです。
だから、イエスを殺すというのは、これは悪魔にとって致命的なことなんですね。
イエスは「悪魔の頭を踏み砕く」、というのはこれをたとえて言っていると考えることができる。まあ、これも一つの考え方ですけれど、この場合は、これ以外に筋の通った解読はしがたいのではないでしょうか。