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=聖句=
「シモン・ペテロは答えた。『主よ。わたしたちは、誰のところへ行きましょう。永遠のいのちのことばを持っておられるのはあなたです」(6章68節)。
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群衆も去り、弟子たちの多くもイエスから去っていきました。
イエスの周りは、まず12人の弟子が固めていました。なかでもヨハネとペテロは助さん格さんよろしく両脇を固めていた。さらにその周りには、72人の弟子が取り巻いていたといいます。これは最低限の数です。72人の外周には、さらに何人もの弟子たちがいたと推察されます。
そのほとんどが「もうこの人にはついて行かれない」と去っていってしまいました。そこでイエスは12人のいわゆる12使徒にもこういった、とヨハネは記しています。
「君たちも去っていくのかい?」(67節)。
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・・・どう答えたらいいか。一瞬、気まずい沈黙があったのではないでしょうか。と、12弟子の一人、格さんペテロはこう言ったとヨハネは記しています。
「主よ。わたしたちは、誰のところへも行きませんよ。あなたは永遠のいのちを与えるみ言葉を持っておられるのです。わたしたちは、あなたが創主のもとから来られた聖なる方であると信じていますし、知ってもいるんです」(68-9節)。
これがペテロなんですね。彼もイエスの「私の肉を食べなさい」という主旨の言葉が何を意味しているか、わかってはいません。けれど、このままでは、イエスはあまりに寂しそうなんですね。だから、ともかく「私たちは去りませんよ」といって慰めた。ペテロは暖かい、人間的な人なのですね。
対してイエスはこう応じています。「あなた方12人は私が選んだんではなかったかい?・・・」(70節)
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この言葉の意味は、わかり辛いところですね。春平太は、こう解読します。
「あなた方も何なら去っていったっていいんだよ。そうなったって、最終責任は私にあるんだから。諸君は、任意で私のところに来た人たちではないのだから。そういう諸君を選んだのは私なんだからね」
ペテロは人間味の豊かな暖かい弟子です。とにかくこの場は、イエスを慰めようとして、「私たちはあなたを信じます」と言った。イエスの「わたしの肉を食べよ」という教えが、理解できないけれども、とにかく、何とか先生を慰めようとして、そういったのでしょう。
対してイエスは、クールに突き放したのではないでしょうか。「そんな風にして、自分を縛って、義務感でついてこなくていいんだよ。諸君の場合は、これまでついてきた責任は、諸君の方にはないんだからね」
「諸君の好きにしていいんだよ」と突き放しているともみえるイエスです。これを書いているヨハネは、どういう気持ちで聞いていたのでしょうか。また、その場を取り繕ってイエスを慰めるペテロを、どういう目で見ていたのでしょうか。
それについては彼は、なにも記しておりません。