ここでまた、世俗の問題を論じておく。
フェースブックにも書いたが、集団的自衛権問題を述べておく。
テレビでも、SNSでもこのテーマの議論が盛んである。
でも、視聴者は国会中継など特に、中身がよくわからないと思う。
集団的自衛権問題は、複雑でトリッキーだからである。
虚像、実像の糸が絡まり合っているのだ。
<9条の実像>
これを巡る議論は「憲法9条に合憲か違憲か」を中心に展開している。
まず、この9条の「実(じつ)」の部分からいこう。
この条項はこういう経緯で成立している。
第二次大戦中を通して、中国を含む戦後世界運営の指導国は、日本民族の怖さに震え上がった。
日本人は被害者意識だけを表に出しているが、中国をはじめ他国が受けた被害はおおきかった。
彼らの意識はこうだった~
日本民族は武器技術力と、人民の盲目的従順性向は異例に高い。
その反面、その人間集団を統治し指導していく政治能力は異例に低く、軍部が暴走してアジア諸国民に獣性むき出しの凶暴なことをした。
彼等に、武力を持たせれば、また軍部が暴走する危険が非常に大きい。
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この民族をどう扱うか?
思案の末の結論が、①まずはとにかく軍備を持たないと憲法でうたわせ、
②民族の防衛は、米国が肩代わりする。
~これだった。
そこで憲法9条の骨子は「紛争の解決手段として武力は用いない」「軍備そのものも保有しない」の二つになった。
夢のような条項だが、そこには絶対無軍備主義という「法の精神」がある。
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だが、人間集団が他の集団に暴力手段(武力)でもって攻撃を加える可能性は常にある。
たとえば飢えは人の獣性を意識の上位に昇らせる。
集団で獣性が上位になれば、他国の食料などを奪取しようという動きは自然に起きる。
歴史はそれを示している。
こういうとき「ちょっと待ってください。話し合いましょう。話せばわかる」というのが九条国の精神だ。
相手集団がかまわず自国に侵入し民を殺し始めても、
婦女子を暴行しはじめても、
「話し合いましょう」と言い続けるのが9条の「純粋精神」なのである。
<終戦時の便法>
けれども、実際の話そんなことは、人間に出来ない。
「右の頬を打たれたら左の頬を出す」ことは、個人ベースなら人によっては出来るかもしれないが、国家集団には出来ない。
だからこの条項は基本的に当座の「便法的」なのだ。
日本民族が、軍事力を統御できる政治能力をもつまでの終戦直後の便法なのだ。
「全ての法律の基盤である憲法がそんなことでいいのか」と言う人もいようが、世の中には例外というものがある。
九条は「例外的」なのである。
必要に応じて“解釈”でもって、精神から外れた解釈もする条項なのだ。
~これが憲法九条の実像だ。
<警察予備隊?>
そして例外解釈が必要な機会は、新憲法が出来て5年もたたない、昭和25年に発生した。
朝鮮戦争がそれだ。
ここで北側が勝てば、北は朝鮮半島全土を支配下に納め、中国、ソ連の支援を得て、日本侵略・共産化に進んでくるだろう。
日本は自分たちの軍隊をもって、最低限、彼等の意欲を抑止せねばならない。
そこで日本ではすぐに警察予備隊という名で軍隊が作られた。
この呼称には、九条の基本精神から外れ、ごまかしたという「うしろめたさ」が如実に感じとれる。
でも日本人はすぐに慣れる。
呼称はまもなく「自衛隊」に変えられ「自衛のためなら軍隊を持っていいという思想を9条は持っている」との通念が出来ていった。
とても便法的だが、九条自体がそもそも便法的だからしかたない。
<9条の虚像>
では憲法九条の虚像とは何か?
「300万の戦死者を出した戦争への反省の元に、国民が抱いた反戦・平和への願い」が具現化した憲法条文~というのがそれだ。
どうしてこんな虚像に着地したのか。
理由はこうである。
9条の実像は人民には知らされなかった。
日本人の理解能力を超えていたからである。
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そもそも日本大衆は戦時中から大本営の虚情報に囲まれて生きていた。
大本営発表を実像世界と思って「夢の中」で暮らしてきた。
戦後日本を統治したマッカーサーは、この日本人を「政治的に13才」といった。
この人々には9条の実状を理解することなど無理だったのだ。
だから知らされなかった。
そこで、日本人は色々考えた。
そして「多くの戦死者を出したことへの反省から」という上記の虚像理念を作り出したのだ。
<戦前心理への回帰>
こうして、日本人は、戦前と同じく「虚像」を実像と思い込んで生きることになった。
戦後もまた、「夢の中」なのだ。
その中で、人民は平和・反戦を、ひたすら訴え続ていきている。
<マルクス思想が絡んでくる>
さらにそこにマルクス思想が絡んできた。
GHQは戦後日本人に言論自由を与えた。
そのなかでマルクス思想は爆発的に普及した。
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この思想は「資本主義社会では資本家が国家を巻き込んで商品の海外市場を求める」
「他国を植民地にしようと争い、かならず、戦争を起こす」
~という信念を持っている。
これが、反資本主義感情を産み、米国を資本主義のチャンピオンと位置づけさせ、嫌米感情を生んだ。
そしてそれらが反戦・平和思想にからみついたのである。
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このなかで人民はますます反戦情念を燃え立たせていった。
ベルリンの壁が崩れて、マルクス思想は流行の陰りを見せた。
けれどもその感情の火照りは健在で、人民は憲法九条を「うるわしき金科玉条」と心情に抱き続けてきている。
最近には「ノーベル平和賞の候補に出すべき」との喜劇的な声さえ出ている。
<集団的自衛権論争の構造>
こういう複雑な背景の中で今回の集団的自衛権の諾否問題は起きているのだ。
人民(野党も)は、この憲法九条に従うのが絶対的正義と考えて疑わない。
対して、安倍政府は、憲法9条の「実像」を知っている少数者からレッスンを受けている。
これは解釈で内容変更すべきものだよ、と(本音では)思っている。
だが本音を言うわけにはいかない(ちらちらと国会答弁では現れているが)。
安倍政府は、これを人民の抱く虚像の土俵の中で、これを「合憲」と主張して押して行かざるを得ない。
従来、自民党がなしてきたようにだ。
ところが、今回は「他国の戦争に同盟国だからだと加勢するのも合憲」という解釈でやることになっている。
そうしたら「いくらなんでもそれは9条を超えている」という見解が大勢になってしまった。
自党が呼んだ憲法学者までが国会で「違憲!」と証言してしまったからたまらない。
<適切な政策は何か?>
それでも政府は今回も力で押し切るべきか?
筆者は別の政策見解を持っている。
「延長国会末までしっかり反対運動をさせて、憲法修正という方向に切り替える」というのがそれだ。
議員数の力で押し切ってしまうと、国家へのダメージが大きすぎるのだ。
ダメージの一つは、「ここまで憲法を崩してしまうと、日本人はますますジャスティス(正義)感覚の薄い国民になってしまう」、ということだ。
第二は、国民に法治国家や民主制への絶望を与える危険が大きいことだ。
さすれば第三に、国民の政治見識を高めようという意欲も、ますます育ちがたくなるだろう。
第四は自衛隊という軍部への影響だ。
合憲と強引に押し切れば、軍部(自衛隊)は「法文解釈などはどうにでもなるもの」との姿勢を強めていくだろう。
これは、戦前の関東軍がたどった道だ。
軍隊は武力も諜報力も手中にしている。、
やろうとすれば、文民コントロールなど押し切ることが出来るのだ。
<問題提起は大きな業績>
だからここは一旦引くのが正解だと、筆者は見る。
それでも安倍政府の功績は残るのだ。
国際社会の中での国防の議論を盛り上げたのは、大きな業績だ。
一旦引いて、九条の実像を明かし、実像に立って政治議論をするという方向に、日本人を方向付けるべきだ。
日本大衆もマスメディアをも「夢の中」から脱出させる。
リアリティに目覚めさせる。
もう愚民国家はやめねばならない。
その中で、憲法修正を提案していく。
時間はかかるだろうが、そういう意識転換を喚起するのは、100年の計に属する立派な仕事だ。
<米国には今しばらく資金援助で我慢して貰う>
この政策は、米国には我慢を強いることになるだろう。
米国は、この70年間、世界大戦が起きないように世界運営を続けてきている。
日本もそのおけげで、70年間もの平和を享受させて貰ってきている。
だがさすがの米国にも、世界を面倒見てきた疲れが人的にも資金的にも現れてきている。
本当は、日本は軍事的にも助力すべきだ。
だが、その体制は憲法の「解釈」でなく、「修正」を通して整えるべきだ。
実像で考えるように人民意識を転換させてそれをなす。
時間はかかるが、米国にはもうしばらく、経済的助力で我慢して貰う。
いましばらく「思いやり予算」で対処させてもらう。
これが今回の最適な解決法だと思う。
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