前回、聖書解釈を実りあるものにするには、二つの原則がいる~と述べたね。
① 個人の聖句解釈の自由。
② スモールグループでの周期的な自由吟味会。
~がそれだった。
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だが、いきなり「これが実りある」と言われても、わからないよね。
この方法と照らし合わせながら、他の方法を説明する必要があるな。
それをするにつけ、まず、この方法を「聖句自由吟味法」略して「自由吟味方式」と呼ぶことにしよう。
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<宗教全般から思考を開始>
もう一つ・・・、聖句解釈に視野を絞るのは後にして、まず、宗教活動全般から考えを進めよう。
宗教活動が「実りある」ようになるには、活動の途中に「危険」が潜んでいないことが必要だ。
危険な事態に引き込まれてしまったら、活動は挫折して「実り」に至らないからね。
危険が無い、ということは「安全」ということでもある。
そして、安全な宗教活動というのは、私が今やってる一連の話のテーマ(主題)でもある「安全なキリスト教の学び方」に重なる点が多い。
そこでまず、宗教活動全般における危険と安全から考えを始めよう。
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<「見えない影響者」を知りたい願望>
これまでの話の基本的なところをまとめておこう。
① 宗教は「見えない影響者」を知りたいという、人間の根本願望からでる活動だ。
② その影響者を日本では「神」と呼んでいる。
③ 人々は、その神を知りたい、知って悪しき影響から逃れ、よき影響を受けたい~と願って暮らしていく。
④ 神のイメージには、在物神と創造神がある。
⑤ 在物神とは、目に見える物質の中に、染み込んでいるとイメージされる神だ。
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<在物神宗教から考える>
この在物神を神とする宗教から考えよう。
在物神をイメージする時の人間の心理の内容は「じ~ん」と感じる神秘的な感慨だ。
感慨は感情であり、感情は理念・言葉に展開していかない。
そこで、人は「じ~ん」を繰り返すことになる。
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<仲介者への願望>
しかし、人はこの神をもっと知りたいと思う。
その願望が、「この神をよく知る人」を求める気持ちに展開していく。
つまり「神を仲介する仲介者」への期待が産まれる。
それに応じるようにして、自称仲介者が現れ、神の言葉を託宣(神の言葉の代言)をする。
これが繰り返されると、この仕事は職業化する。
すると、彼の託宣は人々の思考や行動を左右するようになる。
<仲介者が影響力を持っていく>
彼が本当に神と交信できているかどうかについて、わたくし(鹿嶋)はその正否を断定することは出来ない。
だって、鹿嶋自身がそんな認識はできないのだからね。
他者がホントに交信できてるかどうかの判断など出来ないのだ。
だが、現実には、ほとんどの仲介者は、自称しているだけであることは、様々な結果を観察したことから言える。
けれども、この仲介者がその託宣でもって、人の行動を左右することが現実に多い。
社会を動かすこともあり、さらに大きく国家を動かすこともある。
それが危険なのだ。
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このように、仲介者が介入する在物神宗教は危険を含む。
つまり、安全でないのだ。
聖句自由吟味方式には、それがない。
個々人が直接聖句にあたって考えるんだからね。
この方式では、各々が思考をやめない。 思考停止がない。
今回はここまでにしよう。
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