<神イメージの「根深さ」を比較すると>
前回に示したように、創造神イメージは、外からの言葉によって、かろうじて人の心に創られるものです。だから、心に張り巡らせている意識の根っこは、基本的に浅いです。
他方、宿物神イメージの根っこは、生来人の心に根ざしているものですから、その根っこは深いです。
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それ故に、人類の歴史では、創造神イメージが与えられても、そこに宿(在)物神イメージの侵入がいつのまにか起きていた、ということがしばしば起こります。
創造神としては、宿物神イメージが侵入てきて自分の神概念がゆがんでいくのは面白くないでしょう。やはりこのゆがみを矯正しようと、人間に追加メッセージを送りたくもなる。
旧約聖書には、創造されてかなり時間のたった人間に対して「私(創造神)以外のものを拝んではならない」という戒め(命令)を創造神が発する場面も記されています。
ちなみに、この命令を聖書用語で「律法(りっぽう)」といいます。
律法については、また、後に追記します。
<新約聖書にさえ>
旧約聖書におけるだけではありませんよ。
時代が下って新約聖書にもその混同を示す場面がでてきます。
そのなかの、イエスの伝記~福音書ともいいますが~こんな話が記されています~。
<サマリヤの女>
一人のサマリヤの女が、次のような旨の問いかけをイエスにします。
「私たち(サマリヤ人)の先祖は、この山で創造神を礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は礼拝すべき場所はエルサレム(の神殿)だとおっしゃいます。どちらが正しいのでしょう」と。
サマリヤ人というのは、大国アッシリアの混血政策によって出来た混血ユダヤ人ですが、ユダヤ人と変わらず聖書民族です。
ユダヤ人は彼らを混血の故に見下していましたが、精神的にはむしろユダヤ人以上に聖書吟味に熱心でした。
で、このときイエスは応えています~。
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「あなたがたが父なる創造神を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういうときが来ます。
・・・(中略)・・・真の礼拝者が、霊とまことによって父を礼拝するときが来ます」
(「ヨハネによる福音書」、4章20-23節)
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この話は「サマリヤの女」としてクリスチャンたちには有名ですが、ここで注目すべきはこれです~、
つまり、イエスの時代になっても、サマリヤ人もユダヤ人も山や神殿の中に宿るものとして神をイメージしていた、のです。
彼らは代表的な聖書民族ですよ。
それでさえ、依然として創造神を宿物神感覚でみていた。
このことは、宿物神感情が人間に如何に深く根付いているものか、を如実に示しています。
でも、聖書の描く物語は「それを悟っておしまい」とはなりません。
クライマックスがある。
それは、この創造神イメージの実在感をイエスが確かなものとする場面です。
イエスは最後に「もう宿物神イメージとの混同は生まれないように」します。
このクライマックスも含めて物語は完結する。
これが聖書物語の鳥瞰図(全体像)です。
後に、詳しく見ることにしましょう。
(続きます)
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