5章では殺した側の心理を考察しました。
この章では、殺された側の人々であるバイブリシストの心理を追います。
聖句主義活動史の研究家、キャロルは1200年の欧州暗黒時代を通して
総計五千万人のバイブリシストが虐殺されたと推定しています。
年平均にならすと約4万人です。
これだけの数の仲間が、毎年毎年1200年にわたって欧州のあちこちで惨殺されていたことになる。
気の遠くなるような想像を絶する話です。
ところが彼らは聖句主義活動を止めなかった。それでいて絶滅もしなかった。
この活動には新しく参加する人々が今も絶えないのですが、いったいこれはどう理解したらいいでしょうか。
生命を危機に置きながら活動を続けた彼らの精神構造はどうなっていたのでしょうか。
これは重いテーマです。人間には自己の肉体以上に大切にするものがあり得るのか。
あるとすればそれは何か、どういう原理によるか。
それらを明るみに出す作業をこのテーマは要求するからです。
だが、これをスキップするわけにはいきません。
したらバイブリシストたちの活動史の中核が空洞になってしまうのです。
だから力の及ぶ限り、試みたいと思います。
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この問題への総合的な答は、
「聖句吟味が与えるものが、死の危険や飢えや寒さといった苦しみより大きい」ということになります。
けれども与えるもののすべてを示すことは、聖書の全体を語ることにもなって、
限られたスペースはもとより筆者の能力でもってしてそれはできません。
本章ではそのうちの一つ、「真理を知る夢と実感」に焦点を当てて述べようと思います。
昭和時代最大の作家と言われた山本周五郎が揮毫を頼まれると常に書いたと伝えられている言葉があります。
「真を知るためにいのちを惜しまず 周」がそれでした。
バイブリシストがそのような精神を抱いていたならば、
命を惜しむことなく活動できたと推定できるわけです。
真というのは真理であり、その原義は変わることのない理論知識」です。
英語のトゥルース(truth)はそれを意味しています。
そしてこれは「仮説」に対する言葉です。仮説は修正されて「変わりうる」理論です。
対して真理は、「もうこれ以上修正が不要な究極の理論知識」となります。
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