鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

飛鳥石舞台から:「内生的な神」、「外生的な神」

2007年01月09日 | “エホバ”の奥義
~~前回の続きです。

                    


<内生する神意識>

 明日香の地を取り囲む周囲の山々に足を運びますと、どの山の山腹にも神社があります。
おそらく人々は山に神性を感じて、神が降り立つ場所を作ったのでしょう。

 飛鳥時代の人が山に神性を感じる気持は追体験できました。
山は、木の実・草の実・木材等々の恵みを人々に与えてくれます。と同時に、恐怖感も与えます。

 電気のない時代です。もちろん、テレビの深夜放送もありません。
夕方から明け方まで10時間近くを延々と人々は毎日暗闇の中で暮らしました。
現代人がタイムスリップしたら、全員鬱病になるのではないでしょうか。

 強風の吹く夜などは、回りの山々はゴーゴーと呻ったでしょうね。
人々はそれに神の怒りを感じ、日頃の行為を反省し、後悔もしたでしょう。

 そして、そうした神の降り立つ場所を作り、そこを拝したことでしょう。
日頃の恵みに感謝し、同時に、悪い行為を謝ったでしょう。


                    

 なお、この神社の構造は旧約の幕屋にとても似ています。
幕ではありなせんが、周囲が四角く石の杭で囲まれています。
その中に聖所のような建物もあります。又その中に至聖所のような空間もあります。
至聖所的な空間の中にはご神体が置かれている。多くの場合それは鏡のようです。
そして人々はその神社を掃き浄め、礼拝しました。

 もちろんバリエーションもあります。明日香の盆地を少し外に出てすぐのところには、三輪神社があります。
これなどはご神体が三輪山という山そのものです(これはヨハネ4章で、サマリアの女がイエスに
「(創主を拝すべき場所は)この山でか、あるいはエルサレムでか」
と尋ねる場面を想い出させます)。

 この山に向かう参道の入り口には、巨大な鳥居が建てられていて、夜にはライトアップされ空にそびえています。
ご神体である三輪山を拝するのはここからだ、と明示しているわけです。

                    


  が、いずれにせよ、このように山に神性を感じるのは人間の自然な情ではないでしょうか。
鹿嶋もその気持ちがよく実感できました。
山そのものをご神体として、その一方向の入り口に巨大な鳥居を作って拝む気持もわかりました。
あるいは、山にいる神が降り立つ具体的な場所を神社として造り、降り立つ焦点に鏡を置く気持もわかります。

 鏡は光を反射します。それがそこから光が発しているようにもみえます。
その光を発するポイントに神が降り立っていると感じる気持が、よくわかります。

 人の心の内から自然に生じる内生的な神の概念は、人間にとって最初から実感の伴う神概念です。


                    


<外生的な神概念>

 次に鹿嶋は考えました。
山に神々が入るという実感は人間の情として自然に起きることだ。
では、これらの山々やそこに住む神々、さらにはそれらをも含めた万物を創った唯一の存在、
というイメージは自然に意識に生じるものだろうか、と。

 鹿嶋は盆地にたたずんで、じっくり想像してみました。そういう感情が内生的に心に生じるだろうか。
自らの心で実験してみました。実感してみようとしてみました。しかし、出来ませんでした。

 「万物を創った唯一の創造主」という理念は、人間自然の情として内生的には生じないようです。
これはどこか外から与えられねば心に形成できない、外生的な理念でありました。

 外から、というのは、人間に対しての場合は、具体的には言葉としてでしょう。
そうです、心の内に内生しない概念でも、言葉として与えられたら、
人はそういう概念を心に抱くようになりうるのです。

 ただしそれは、少なくとも当初は実感が伴うものではありえません。
自分の内側から沸々と自然にわき上がる感情を、理念にした者ではないのですから。
そうです、外生的な神概念は最初は実感が伴わない神概念なのです。

 
                   


<創造主を人類の意識に入れるプロセスとして>

 鹿嶋は飛鳥の地で、創造主なるものを自然な状態では心に内生できないのが人類の精神的資質だと実感しました。
と同時に、面白いことに気づきました。すると聖書を~
~創造主が自分(創造主)を人の意識に形成していくプロセスに焦点を当てて~~読んでみたら面白いのではないか、と。

(アダムが罪を犯した後からは、人間の心には創造主は自然には生じない、というのが聖書の基本思想です)


 新約聖書のある今、最終的なゴールの状態は、示されています。
それは創造主を実感を持って意識に納めている状態です。
それは最終的には聖霊を受けることによって実現します。

 だが、聖書では人類がそこに到る過程は簡単ではないようです。
おそらくそれは、罪を犯した後のアダムからの人間の霊感が、劣化してしまっていることによるのでしょうが・・・。

 そういう状態の人間の意識に創造主を抱かせて、「創造主有り」の世界観、いうなれば有創造主世界観を持つようにし、
さらにはそれを実感の伴うものにするに、創造主はいかなることをしてきているだろうか。
聖書でその過程を追うというのも一つの解読ではないだろうかと。

                    


 もしある程度でもできれば、まさにそれは創造主中心の神本主義での聖書解読になるでしょう。
人間は、聖書を解読するとしてもやはり自分中心の人本主義の読み方に知らず知らずになっていくものです。

 創主がどうしてきたか、という観点から一貫して聖書をたどることは、そのマイナス面を補うのではないか。
明日香盆地に腰を下ろして、そんなことを漠然と考えていて気がつくと、
夕闇迫る飛鳥の空気は急激に冷えを増してきていました。

(続きます)

                    


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7 コメント

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三輪神社のこと (sabia)
2007-01-09 14:24:05
鹿嶋先生、本年もよろしくお願いします。三輪神社まで行かれたのですね。私には思い入れ深い神社です。正式名称が、たしか大神神社(おおみわじんじゃ)で通称 三輪明神(みわみょうじん)と呼ばれます。背後の三輪山そのものが御神体でして、拝殿しかありません。それが古来の神社信仰のありかたでした。一般に、拝殿と別に本殿を置いて、その中にいつも神が鎮座されると考えられるようになったのは、佛教の影響らしいです。私は、三島由紀夫の「豊穣の海」で大神神社の由来を知って以来、10年ほど前までは、毎年のように参拝していました。結婚式をここで挙げようと企画したこともあります。
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探求型? (鹿嶋春平太)
2007-01-10 05:06:58
Sabiaさん
 本年もどうぞよろしくお願いします。
いつもブログを拝見しておりますよ。

 そうですね。歴史の順番から言えば三輪明神が原型で、他の神社が変形かもしれませんね。
それにしても、「豊穣の海」を読んで毎年参拝とは。Sabiaさんは、ホントに探求型の方なんですね。
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Unknown (masa)
2007-02-02 17:01:39
神社に鏡を置くのは、へび信仰と関係があるそうです。
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もう少し詳しく (鹿嶋春平太)
2007-02-03 10:49:36
masaさん
 もう少し詳しくお知らせください。
面白そうです。
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Unknown (masa)
2007-02-03 18:44:00
昔、鏡のことを「かがし」といったそうです。またへびのことも昔は「かがし」といったそうです。古代メソポタミア文明におけるへび信仰が長い年月を経て日本に伝わり、へび(かがし)=鏡を奉るようになったそうです。ちなみにへびの目は瞼が無く、鏡みたいですよね。だから鏡はへびの目をあらわしているらしいです。鏡餅ってありますよね。なんで鏡餅というかというと、かがし餅、つまりへび餅という意味なんですね。形がへびがとぐろを巻いているのに似てるからだそうです。
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♪山田の中の♪ (鹿嶋春平太)
2007-02-04 08:53:57
面白いなあ・・・。
♪山田のなぁかの一歩あしのかがし♪
というときの「かがし」という名も、へびに関係があるのでしょうか?
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三輪さんのことも・・・ (鹿嶋春平太)
2007-02-04 09:09:51
そういわれてみれば、奈良の三輪神社。
ご神体は三輪山という山だと言われる一方で、あそこはへびをまつる神社だと聞いたこともあります。
これはどうなっているんでしょうね。
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