鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

幕屋:拝する「場」を造らせる

2007年01月23日 | “エホバ”の奥義


~~写真は、再建された幕屋の構造模型
(出所:Alexander, Dsvid & Pat(1973)、中村寿夫・森正義、松代幸太郎訳(1978)『カラー聖書ガイドブック』いのちのことば社、P.166)




~~1、2,3月は毎年、鹿嶋のバイオリズムが低調になるときのようです。もともとよくない頭の回転が、更に悪化します。視力も弱って少しやると霞んだりします。更新が思うようにいきませんが、皆様よろしくお願いします。


                    


  ゴッドリーな世界観の型枠を一民族の中の多数派が抱くようにするのは、とても難しい。エホバはそのために様々な手段を講じた~~という見方から旧訳聖書の出来事を眺めると、幕屋というのも新しい意味を帯びてきます。

  創造主は自分がこの世を造ったと文字に書かせ、他のものを拝むな、と命じ、週に一日は終日仕事をせずにオレを想え、と命じてゴッドリーな世界観の型枠をイスラエルの民の大衆に持たせようとした~~こういう風に考察してきました。その線でいくと、それだけでは十分でないから幕屋を造ったのではないか、と見ることも出来るようになるわけです。

                    

<移動神社>

 幕屋というのは、日本でいったら神社ですね。移動神社。
 モーセに幕屋を造れと命じられたときのイスラエルの民は、エジプトからカナン(今のイスラエルとその周囲の地域)に向かって荒れ野を旅していました。

 だからたたんで移動させられるものであることが必要でした。後に彼らがカナンの地に入って定住するようになると、これが固定的な神殿としてエルサレムに建てられます。でもいずれにせよ神社です。

                    


<具体的な場があると実感が湧く>

 幕屋は創造主のイメージを具体的にして実感を高めるのにとても有益です。神様を拝せよと言われたら、人間はどちらかの方向を向いて、何かに向かって礼拝したくなるものです。そうできると見えないものにでも、ある程度の実感を持って礼拝することが可能になります。幕屋はそれを可能にするのです。

                    


<時間空間的無限者>

 論理的に言いますと、万物の創造主というのは時間的にも空間的にも無限者となります。

自分以外の「万物」を創造したというのなら、自らの存在に出発点があってはなりません。それがあったら、それ以前に存在したかも知れないものに対しては、「オレが創った」といえません。創った以上はそれなりの影響を与えているわけで、影響を与えるにはその時点で既に存在していなければならないのです。

 被造物の特徴は、存在に初めがあることです。創られたものでありますから、創られた時点がその存在の出発点となっています。

 とはいえある被造物が非常に昔の時点にも存在していた可能性があります。それらも含めた「万物」を創造したと言えるためには、創造主は無限の過去、永遠の過去から存在していなければなりません。

 未来についても同様なことがいえます。無限の未来にも存在していなければならない。だから、万物の創造主は永遠の過去から永遠の未来に向かって存在していなければならないことになります。つまり、万物の創造主は時間的に無限な存在者です。

                    

 空間についても似たことが言えます。創造主は無限の広がりを持っていなければなりません。もし、ある範囲までしか存在しないのでしたら、その外側のものについては、オレが創ったとは言い難いのです。そこで空間的にも無限の広がりを持った無限者と言うことになるのです。

  ということは人間がその形をイメージすることは出来ない存在ということでもあります。なぜなら人間がイメージする形というのは、ある空間的な境界を持ったものですから。我々はその境界線や面をなぞって、それを「形」と意識するのですから。

                    


<一定の実感をもって拝せるために>

  そういう形のないものが創造主の実体です。だから「私を形あるものに創ってはならない」と創造主は命じたのです。そのカタチあるものとはすなわち偶像でしたよね。

  ですけれども、カタチのないものということになると今度は、実感し辛い、という問題が起きてきます。少し先走って言いますと、創造主が究極の実感を与る方法は幕屋によるものとは別のものです。カタチのイメージからではなく創造主と同質であるところの聖霊を受けさせて創主を体験させる、これによって人の霊感にその確かな感触を与えるというのがそれです。

 (イエスがヨハネ伝4章でサマリアの女に「あなたがたが、この山でもなく、またエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る。・・・・・・・。まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととを持って父を礼拝するときが来る」といったのはその関連においてです。)

                    


 けれども人類がそこに至れるのは、まだ先の話ですからね。イエスが人間の姿で現れて、教えを残し、十字架上で殺されて、復活して、天に昇って、それからの話です。旧約の時点では、エホバはそのプロセスが展開されうるために、ゴッドリーな世界観の型枠を一民族の大衆に形成しなければならないのです。

 そのためにとった手段が、礼拝する具体的な「場」を造ってあげる、ということだったのでしょう。この場所で、ここに並んで、この方向に向かって礼拝せよ。これを指示する具体的な場と、建物などを造ってあげると、人間は実体の感触がない段階でも、ある程度の実感を持って礼拝できるんですね。そうしてゴッドリーな世界観の型枠を人々は意識に形成しやすくなる。

 そのために幕屋は必要だった、ということになります。大和三山があってもその麓に、神社が必要だったように。

(続きます)

                    


コメント (1)    この記事についてブログを書く
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1 コメント

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いつもありがとうございます! (andygoo)
2007-01-27 12:44:22
鹿嶋先生、
洞察の深い記事をありがとうございます。いつも「ん~」と考えさせられます。1月から3月は何かとお忙しいかと思いますが、どうかお体に気をつけてくださいね。祈っています。
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