<カトリックの反動革命>
前回、イエスの弟子たちが始めた初代教会は「人を律法の養育の下から解放した」ことを示した。
その状態でキリスト教会は活動を続けたが、1世紀余り後に、一つの教理を正統として活動を統一する方式の教会が現れた。これが後のカトリック教会である。
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<大衆を大量に扱えるシステム>
この方式は、大衆を大量に収容し組織化するのに適していた。
また、指導者をプロの僧侶として養成し、これも階層的に組織化するに適していた。
カトリック教会は急速に大規模化した。その勢いで、大ローマ帝国の唯一国教の地位を獲得した。
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<自教団の方式を強制>
すると、彼らは国家権力を利して、欧州の全人民に自分たちの活動方式を採用するよう強制した。
国教会となっていたカトリック教団、は初代教会以来の自由吟味方式で活動する人々をも例外としなかった。従わない彼らに苛烈な攻撃を加えた。近世になってこの母体から出現したプロテスタント教会も同じ原理で動いた。
両教会はこぞって、自由吟味教会の情報を封殺したキリスト教史を流布し続けた。その結果、キリスト教活動のほとんどは、再び養育係の下に引き戻されることになった。その状態は現在も続いている。
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<結局反動革命を起こした>
若干余談になるが、筆者はカトリック教団を一面的に批判しているのではない。
新方式の指導者にも、歴史上、しかたないところもあったのだ。
最初に使徒たちの所に集まったのは、聖書を読む知識人たちであった。
1世紀後に教会にやってきた大量の人々は、そのほとんどが聖書を読まない大衆だった。カトリック指導者たちも、養育係の下でのようにして対応するしかなかったかも知れない。
だが、カトリック教団が手にした権力は強大すぎた。
彼らは結果的に、初代教会で芽生えた自由吟味活動の流れを、逆流させてしまった。
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<『バプテスト自由吟味者』を出した動機>
筆者は、以上のようなキリスト教活動の歴史、ひいては世界人類の思想的全体像を示しておきたくて、『バプテスト自由吟味者』を出版した。
もとより現状では、一般の人々にこんな小冊子が受容されることはない。売れない本なので筆者に印税は全く入らないし、出版主(桐生さん)も赤字のままだ。でも、この情報は人類に重要きわまりないと思って、出版した。
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<黒を知って初めて白を自覚>
われわれは白を、対極の黒があるから、明確に認識できる。なかったらただ漠然と「明るい」のみだ。世の中に男性がいることによって、女性は自分が女であることを認知できる。おとこがいなかったら、ただ「人間」として認知するだけだ。
同様に自由吟味方式を知って、はじめて、教理統一方式を明確に認識できる。
自由吟味方式の基底にある「人間は真理に到達できない」というスタンスを知って、はじめて、教理統一方式の基底にある「人間は真理に到達できる」という思想を認知する。
そのために、自由吟味方式のなんたるかを人々に知ってもらうことを切望して上記の小冊子を出した。
これは「人間はだれも聖句の絶対正統解釈には至れない」という示唆も明確に与える本でもある。
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<安易な「異端!」呼ばわり>
この気付きは重要だ。
それを悟れば、人はもう他者を「異端!」と攻撃することがなくなる。自然になくなっていく。
なぜなら、「異端というのは絶対の正統があって初めて言えること」だからだ。
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その際、攻撃するものが正統として与えられているのは、論理上、教団の教理だ。
ところがその実、彼らは教理書など読んでない。読んでもわからないし。その状態で他者を「異端!」と呼ばわっている。なんと愚かなことか。
そのことに目覚めれば、クリスチャンが、聖句を手がかりとする他者の世界探究を「異端!」と呼ぶこともなくなる。まるで何かに操られているかのように、他者を攻撃し、否定の力を及ぼすこともなくなる。
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<創造神の意図>
聖書の世界観では、創造神は人間を存在せしめ、生き続けさせる。その意図に沿うのが人間のあるべき姿、となる。(創造神が決めたのだから)
その人間が、自らの置かれた世界を知ろうとする知的ないとなみの道、・・・これに言葉で手がかりをちりばめているのが聖書だ。
人はこの道をともに進めば、喜びがえられ、さらに知識を得るために聖句を自由吟味する小グループで助け合える。
その姿が、米国サザンバプテスト地域に活き活きと息づいていた。これが創造神の意図に十全に沿った姿だった。
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<「悪しきもの」のけしかけ>
しかるに、大半の人間は他者の世界探究に否定の力を与える。攻撃する。繰り返すが、まるで何かに操られているかの如くに、攻撃する。
あたかも自分が絶対正統な聖書理解を得ているかのように欺されて、他者の世界探索を「異端!」と攻撃する。
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愚かなことだが、「何かに操られているかのように」には聖書的根拠がある。
イエスが教えた「祈り方(いわゆる“主の祈り”)」の中の「我らを悪しきものよりお守りください」の「悪しきもの」が、人間をこの愚かさにけしかける存在なのだ。
これに欺されないことがいかに必要なことか。
これに乗せられていたら、人間は他者を「異端!」と攻撃し、否定の力を及ぼす。
否定の力、これすなわち「鬱のタネ」だ。情けないことに、現状では、信仰者が互いにそれを植え付けあっているのだ。
また、他者からの「異端!」という攻撃を恐れることによって、自らの内に「ウツの種」を植つけている。
まさに、「鬱の奴隷」だ。
この源泉が、「人間は究極の真理にいたれる。そういう賢人がいるんだよ」という思想だ。これが人間を相互にウツを与えあうようにだまし、誘導する。
繰り返すが、これに乗せられている姿の、なんと愚かなことか。
人間は、そのことに、早く、早く気付くべきだ。
それを悟らせてくれるほとんど唯一の教材がバイブルだ。それを自由吟味すると実情が悟られる。これを活かせば聖書は創造神が人間に与えている宝となるのだ。
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これから筆者は本論に戻る。
イエスの夢の言葉の(III)の解読に入る。
その際、読者が筆者が上記のごとき事実認識にたって、思考していることを知って欲しい。
そして望むらくは、読者もまた自由に、恐れなしで、お付き合いくださることを願う。
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