前回に述べた三つ方法のどれをとっても癒しは起きる。
メソッドに正確に従えば、不思議に癒しは起きる。
だが、その際に留意すべきことがある。
<「創造“神”のなす」癒し>
これらの癒しはみな、「神癒(しんゆ)」(神のなす癒し)である。
イエスも超自然な証拠を見せるときには、常に「父からの力を得ている」という自覚にたってそれをなしている。
このことを放念してはならない。
たとえば、死後四日たった青年ラザロを生きかえらすとき、彼はこう言っている~
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「『父よ、私の願いを聞いて下さったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いて下さることを知っています。
しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』」
(ヨハネによる福音書、11章41~42節)
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ましてや、人間に於いておや、だ。
イエスに身霊込めて同一化している人間が「手を置く(按手する)」場合も、按手のあとはすべて創造神がなしている。
いのち波動を流入させて癒しを実現しているのは創造神だ。
これを確(しか)と認知すべきである。
<「ここで決めてやる!」>
この実感が薄いと、人はついつい「ここで一発決めてやる!」と力んで按手しがちだ。
あるいは、顔引きつらせてやる。
すると、癒しは現れなくなる。
また、たまたま上手くいくことはあっても、しばらくすると癒しは現れなくなったりする。
<神秘イメージが介入しやすい>
「神癒」という認識が薄いとまでは行かなくとも、確かさがいま一つ十分でないことがある。
この場合は、一定期間癒しは現れ続けるが、危険なことが生じやすい。
回りで見ている人々は概して、癒し人に神秘性を感じていくのだ。
人間は生来「在物神イメージ」を抱く性向を持っているから、これは仕方ない所もある。
<当人に感染するとヤバい>
だが、その感情は癒し人、当人にも感染しやすい。
つまり、知らず知らずのうちに、自らのうちに神秘性をついつい容認してしまうのだ。
神秘性を感じると、人々は彼を崇めもする。
その心理にも感染すると、当人は“神の気分”になる。
そういう誘惑が働くのである。
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これは外国の例だが、ある牧師さんに癒しの力が1年ほど続いたことがあった。
人々は押しかけ、教会は速やかに大教会になった。
1年が過ぎるころ、彼は白い衣を着てひげを生やし、白い馬に乗ってくるようになった。
そうしたらしばらくして癒しが現れなくなった。
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その後当人は徐々に悪魔の試みに陥り、翻弄されてひどいことになった。
ここでは詳しくは言えないが、そういうケースも筆者は耳にしている。
どうしたらいいか?
対策は、「癒やしは楽なもの」と徹底して悟ることだと、筆者は考えている。
癒しは「神」癒であって、創造神がなされることだ。
自分は手を置くだけで、楽なものだ、と悟ってやる。
これが正解だと思っている。
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