前回、病人に按手すると病人が癒やされるメカニズムを考えた。
これを容認すると、新しい問題が浮上する。
それは、“イエスの黄金の約束”と按手との関係だ。
黄金の約束とは~「わたしのことばが諸君のうちに住まうなら、望むことは何でもかなえられる」~だった。
「何でも」といったら、病人の癒しも含まれる。
つまり、病を癒やすのに、聖書には二つの方法が提供されていることになる。
すると癒しについて、この両者の関係をどう見たらいいのか、という問題が浮上するのだ。
+++
これを考えようとすると、癒しの方法を鳥瞰することになる。
そして、鳥瞰すると、聖書にはもう一つの、第三とも言うべき方法も出てくると、鹿嶋は認識している。
<第三の方法>
それは~「イエスの名のなかで命ずる」~という方法だ。
命じる対象は、病人でもいいし、その病を引き起こしている「汚れた霊」でもいい。また、ウイルスなどの物質でもいい。とにかく命じるのだ。
+++
この方法は少し解読がいるが、『ヨハネ伝』の14章13節に記録されている。
邦訳聖書で示すとそれは~
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがたが、わたし(イエス)の名によって求めることは何でも、それをしましょう」
(ヨハネによる福音書、14章13節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
~となっている。
<修正すると>
面倒だが、この邦訳文は修正が必要だ。
まず、これまで繰り返し述べてきたように「イエスの名によって」は「イエスの名(の波動体)の中で」というのが正しい訳だ。
+++
そしてこの聖句には、もう一つ直すべき邦訳語がある。
それは「求めることは何でも」の「求める」だ。
これは英文でaskとなっている。
(このあたりの英文聖句は "Whatever you ask in My name" となっている。)
ところがギリシャ語(新約聖書の原文の語)に詳しい人によると、このaskはむしろcommand(要求する、命じる)に近い意味を持ってる、という。
すると聖句はこうなる。
つまり~「わたし(イエス)の名の中で対象に、望む方向に変化する(癒やされるも含む)ように命じることはなんでも、わたし(イエス)がしましょう」となる。
<弟子は「命じて」いる>
実際、新約聖書『使徒行伝』にその一例の記録をみることができる。話はこうだ~。
~イエス昇天後に弟子のペテロとヨハネがエルサレムの宮殿に入ると、足のきかない男が運ばれてきた。
このときペテロは彼に「ナザレのイエスの名の中で歩きなさい』と“命じて”いるのだ。
その結果を聖句はこう記している~
・・・・・・・・・・・・・・
「(ペテロは)その男の右手をとって立たせた。するとたちまち
彼の足とくるぶしが強くなり、おどりあがってまっすぐに立ち、歩き出した」
(『使徒行伝』3章6~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・
この方法の特徴は、癒しを父なる創造神でなく「イエスご自身がなされる」、となっているところにある。
イエスは、「私の名の中で命じたら“私がする”といっているのだから。
<どの方法でもいい>
そこで「父がなさる」のを「第一の方法」とし、按手を「第二の方法」とすると、この「私(イエス)がやる」は癒しの第三の方法と言ってもいいだろう。
もちろん、第一と第三の方法がカバーするのは、癒しに限らず、願うことの全てだ。
だが、それらは癒しをも含んでいるのだから、癒しに焦点を当てれば、その三つの方法といってもいいだろう。
では、癒しを施そうとする側は、このうちどの方法をとったらいいのか。
答えは、「どれでもいいはず」、となるだろう。
みな、聖書に記されている、イエスの約束だからだ。
どの方法をとっても、病人は癒やされる。
ただし、どの方法でも、癒やそうとする人は、イエスを全身全霊込めて愛し、イエスに同一化していることが必要だ。
そういう「信じ方」に至っている人であるべきことも明記しよう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます