鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

49. やっと悟れた福音の「二本柱」

2019年05月07日 | 鬱を打破する聖書の論理


前回述べた「人間は永続する」との人間観のもっている、抑うつへの治療効果は重要である。

だが、ことばの力には限界がある。

例えば、鬱に苦しむ人には、言葉の理解をする知力が弱ってしまっていることが多く、言葉だけでは治療効果は発揮されない。

その場合はやはり、創造神の力を得て癒やしてやってしまわないと、事態は打開できない。

また一般的にいって、言葉の説明では、聞く者の心底に「口だけなら何とでも言えるさ」という気持ちが常駐する。

 
 
<偉跡の納得力>

イエスの宣教も、言葉での説明にはそういう限界があった。

そこでイエスは、言葉の説明を受け入れきれないユダヤ人たちに対して、偉跡~しるしと不思議~を見せた。

偉跡といっても、イエスが説明している「見えない世界」(霊界)そのものを目に見えるようにしたのではない。

それとは別の、たとえば病人の「速やかな癒し」などを見せた。

すると人間は、そういうことは、「見えない世界」に通じている人でないと出来ない、と直感するものだ。

そこで、多くの人が偉跡によってイエスの教えを受け入れた。

 

<「偉跡の方法」を言い遺す>

イエスは、弟子や、弟子の宣教によって宣教者になる人々が宣教する際にも、それが出来るようにと、「しるしと不思議」を現す方法を教えていった。

そして、自分が天に昇って地上にいなくなるにつけ、福音を伝えるには~

①宣教と
②しるしによる証明

~の二本柱が必要と言い遺した。


            

<余談~反省~>

さて今回、ここからは余談だ。
筆者は一つの反省を述べておこうと思う。

30余年前に聖書解読を志して以来、筆者がこの「②しるしと不思議による証明」に正面から取り組まないままできた。
~そのことへの反省だ。

 
 
 
<偉跡をスキップして聖書解読>

筆者は、聖書にある「癒し」などの不思議を述べた聖句を、神話だとかいって一笑に付すことはしなかった。

実際に癒しを現す人をもよく知っていたし、奇跡は存在すると受け取ってきた。

+++

だが、今思えば、自分が「しるしと不思議」を現すことに尻込みした。

筆者は、癒しで偉跡を示す人たちに、「霊感が豊か」という共通の資質を観察していた。

その認識を踏まえて、筆者は「自分が癒しをするには、霊感が育ってから」と考えた。

そして聖書解読を伝える途中で、癒しの必要な人に出会ったときには、自分の知る「霊感の豊かな人」にそれを依頼してきた。
それで実際に病める人は癒やされた。

その状態で筆者は、自らに霊感が育つのを待ちながら、癒しへの取り組みをスキップした聖句解読を、続けてきた。

30年以上、そうしてきた。



<もう自分がせねば>
 
ところが、今回、筆者が直面した「抑うつに苦しむ人」は、これまで依頼してきた「癒し人」と居住地が遠く離れていた。
かつ、「苦しむ人」の親御さんが霊ベースの、霊感者による癒し、ということに、関心が薄かった。
これらの壁に対処している内に、患者当人が悲劇に襲われてしまった。
 
+++

この事態に直面して、筆者は「私自身が癒やさねばならなかったのだ」と痛感した。

そこで、聖書の中の「偉跡」~とりわけ癒しの方法~に、初めて本気で取り組んだ。
それが、本稿で示したヨハネ15:7の「イエスの夢の約束」をはじめとする聖句の解読だったのだ。



<時々聞かれるように>

そして、目の覚めるようなことが起きた。

イエスの「夢の約束」の聖句を吟味解読していたら、時々ながら、祈りがきかれ、しるしが現れるようになったのだ。

探究している間に霊感が増したという自覚はなかった。
霊感の豊かさは必須ではなかったのだ。

偉跡は思ってたより簡単だった。

+++

今振り返ると、筆者は聖書の「しるしと不思議」のところで、腰が砕けていたと思う。

そして「霊感の必要」を勝手に持ち出して、「しるしと不思議」の箇所をほとんどスキップし、「理解の聖書学」をすすめてきた。

 
 
<もう少し早ければ・・・>

だが、「もう自分がやるしかない場面もある」と思い知り、「理解の聖書学」の限界を悟った。

「実践の聖書学」がそこに加わらねばならない、と思った。
 
そうしてイエスの「夢の約束」の吟味に、初めて正面から取り組み始め、徐々に祈りがきかれ「しるし」が現れてしまった。

それを通して、30年間聖書を通して学んできた自分の福音は、二本柱でなかったことを、思い知った。

筆者は「(気がつくのが)遅かった・・・」としみじみ感じた。

残された自分の余生をみると「遅かった」のだと。

もっと早くやっていたら、多くの人を助けられたのに。
教会という「助けの場」を造ることも、あるいは出来たかも知れなかったのに、と悔いた。


+++

聖書には、癒しを始めとして様々な超自然的事象が記されている。
特にイエスは偉跡を連発し、死からの復活もして見せた。

のみならず、人間がそれを証言~当面「証し(あかし)」と呼ばれることが多いが、要するに証言だ~し、しるしと不思議でそれを証拠する方法も言い遺していった。

世を去るに当たって、イエスはそれを遺言していった。

聖書にはまた、宣べ伝える者たちが、多くの偉跡を実現した事例が、数多く記録されている。

+++

だが、筆者は聖書をそのまままっすぐには、ストレートには探究してこなかった。
自分のキリスト教探究は、真の素直さを持っていなかった。

伝道活動も、①宣教と②証拠、の二本柱を最初から明確に目標とすべきだった。
 
聖書の論理も、しるしを体験しないと深く霊識できない。

また、その霊識も周期的にしるしを体験しないと、維持できない。

オレのやってきた福音探究は「ママゴト」だった・・・。
 
この歳になって、はじめてそれを悟るとは・・・。
 
晴れやかでもあるような、複雑な気持ちだ。
 
 
 
 
 
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