
創造神の波動ワールドを構成する意識波動体を、筆者は7つ述べてきた。
イエスの名の信号のもとには、他にも夢のような意識波動体が伴っている。
人の罪を許す「イエスの血」もそれだ。
とにかく、そのようにして意識波動体を具体的に述べた。
それによって、イエスの名という信号に伴う意識波動がイメージしやすくなったと思う。

その話の中で筆者はこうも述べてきたね。
その波動ワールドの中に自分(の意識波動体)を住まわせるのが、「信じる」の実体だと。
また、住まって黙想していると、自分の意識体の中に、創造神の意識波動体と同じ意識波動体が出来てくる、と。
これすなわち、創造神(の意識波動体)だ。
自分の身体が「創造神の宮になる」、という聖句はそれをいっている、と筆者鹿嶋はいったよね。

<ベルグソンの認識論>
だがこれらは筆者の私見だ。
そのうちで、創造神の意識波動体が、人の心の中での出現するという考えは、哲学者ベルグソンの実在認識論の助けをえている。

<実在は動態で個別的>
ベルグソンは、我々が認識しようとする実在それ自体は、個別的で動態的なものだとみる。
たとえば、自分の手をじっと眺めてみよう。
それは常時老化という動きをもった実体だとわかってくるだろう。
われわれが「自分の手」というときは、そのうちの一瞬の静止画像を想定して言っているのであって、実体は刻々と動いている。
一瞬前の手と一瞬後の手はちがう。つまり、自分の手という実体は、各時点で個性をもっているのだ。
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それを「手」という言葉(概念)を用いて認識するときには、すでに、個性的で動態的な面は捨象されている。
なぜなら、概念というイメージ体は、対象の個別性を捨象し、他の実在との共通性だけを抜き出して出来たものだからだ。
これを通して認識すれば、独特の個性は捨象されざるを得ないのだ。

<直感的同一化>
だがベルグソンは、実在そのものを認識する方法はあるとする。
それは、対象実在に心を寄り添わせて、感性を働かせて対象との同一化をすることだ。
人間に与えられている感性という認識能力を用いて、直感的同化をする。
これによって人は実在そのものを、自らの感性の内に再現するすることが可能だという。

<同情により悲しみを認識する>
心を寄り添わせての同一化認識には、他者の悲しみに同情する場面をイメージしたらいい。
われわれがある人の悲しみ聞いて同情し、ともに泣くときの心理はどうなっているか。
我々は、その人の心に自分の心を寄り添わせるだろう。
そして、その悲しみに自分の心が共鳴するのを待つ。
そのうちに、心が重くなっってきたとき、我々はその人の悲しみがわかった、と確信する。
その時同情者の心には、悲しんでいる人と同じ悲しみが、生じている。
これがベルグソンの同化認識だ。

<霊的領域でも共鳴箱作用がある>
筆者鹿嶋は、こうした心理作用は霊的領域に於いても働くと考える。
そしてそれに波動の概念を参加させてこう考えていく。
すなわち、創造神の意識波動体は波動を発している。
ちょうど一つの共鳴箱が静かに波動を発しているが如くに、波動を発している。
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そして、我々がそれに意識を向けて黙想していると、我々の意識体の内に、同じ周波数を持った共鳴箱が出来上がっていく。
さらに黙想していると、自分の内の共鳴箱が「ウーン」と共鳴するときがくる。
このとき、共鳴箱の中に創造神の意識波動体(と同一の分身)が出来上がっている。
神と「同一」の分身というのは、すなわち神だ。
こうして「創造神が人の身体(宮)の中に住まう」事態は実現されるのだ。
そうなった当人が創造神になにかを願うとき、自らの内に住む創造神が、宮から出動して実現してくれる。
これが~


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「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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~の鹿嶋解読だ。
そして、筆者はこの解釈に結構納得感を得ているよ。
今回はここまでにしよう。
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