しばらくお休みしたね、りんたろうくん。
旅の話はあとにして、これまでを少し思い起こそう。
在物神イメージには最初から「じ~ん」とくる感慨・実感が伴っていた。
対して、創造神イメージは理念であって、最初は実感はともなわなかったよね。
だが、それに理念(言葉)が追加されていく。
それによって実在感が現れ、増していく。
創造神はそいう神イメージだったよね。
<理念は理屈を造っていく>
今回はその続きだ。
創造神イメージは理念だ。
そして理念は他の理念とつながって理屈(理論)を造っていく。
理論が増えるにつれて、神イメージは具体化していく。
こうして人は創造神という「神を知っていく」ことになる。
<被造物が自分を知ることを喜ぶ>
少し先走った余談をいうと・・・、創造神という神は、自分が造った被造物が~とりわけ人間が~「自分を知ってくれる」ことを喜びとする神だ。
聖書メッセージではそうなっている。
それは我々の常識で考えてみても、納得いきそうなことだけどね。
「被造物が、造ってくださったご主人様を知らないで生活していたら、創造神も面白くない」もんね。
がとにかく聖書を全体的に概観すると、そういう創造神像が見えてくるんだ。
だがそれは先の話だ。 本筋に戻ろう。
<存在空間に限りが有れば>
今日は、創造神という神がどういう神かを示す理屈の一例を話そう。
前に、「創造神は空間的無限者」という話をしたね。
もし、有限で存在範囲に限りが有るのなら、その外側のモノは「オレが造った」とは言いがたい。
だから、「万物の」創造神というのなら、空間的に限りない広がりを持った「空間的無限者」のはずだ~と。
<存続時間に限りが有っても>
そして時間についても、同様なことが言えそうなのだ。
まず、過去から。
創造神がもし、無限の過去から存在していないのなら、それは「ある時点から存在し始めた」ことになるだろ?
だったら、それ以前に存在した可能性のあるものに対しては、創造神は「オレが造った」とは言いがたいはずだ。
だから「万物の」創造神は、無限の過去から存在していて、初めて筋が通ることになるんだ。
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未来についても同じだよ。
もしも未来のある時点で存在しなくなるのなら、それ以後に存在する可能性のあるものについては「オレが造った」とは言いがたいだろう。
だから、「無限の未来に渡っても」存在するのが道理となる。
<だから時空的無限者なのだ>
この無限の過去と無限の未来をあわせると、創造神は時間的にも無限の長さで存在する、時間的無限者となるだろう。
そしてそれを空間的無限者とあわせると、「創造神は時間空間的無限者」のはず~ということになる。
今回はここまでにしておこう。
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