鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

6.「感慨」としての神と「理念」としての神

2018年03月08日 | 安全なキリスト教の学び方





今日は、神イメージを抱くときの心理を考えてみよう。

少し理屈っぽいよ。


  


<感性と理性>

人には感性と理性が与えられている。

感性とは、ものごとに直接対面し、それを直感的に認識する能力だ。

理性は、意識の中にある内容を整理し、筋道を与えたり推理する能力だ。

+++

ただし理性は、物質を直感して得られる認識内容に対してだけでなく、空想したイメージを対象としても働く。

だから理性とは広く、心に浮かんだものを整理したり、推論したりする能力といっていい。






<在物神イメージは感慨>


在物神をイメージするとき、人間の心で働く能力は感性だ。

森の中を歩いていて、森の冷気の中で巨大な樹木に対面したとき、われわれは、なにか神秘的なものを「感じ」る。

「ジーンとくる感情」、と言ったらいいかな。

その感じを「感慨」ともいう。

感性が働いて、神イメージという感慨が「ジーン」とやってくるのだ。






<創造神イメージは理念>


他方、創造神イメージには「ジーンとくる実感」は、はじめは何もない。

そんな何もないところに、外から言葉でポーンと与えられるイメージだからだ。

言葉は理念で出来ている。



+++

理念の「念」は「深い思い」といったらいいかな。

普通よりも深く思うとき「念を凝らす」というだろ。

あれだな。


+++

理念の「理」は筋道だ。

深い思いは、最初は混沌、漠然としている。

それに理性は筋道を与え、ハッキリさせる。





<理念は思いに筋道を付けたもの>


だから、理念とは「深い思いに筋道を与えたもの」となる。

そういう筋道だったイメージに、文字や、音声などの信号をくっつけたものが「言葉」だ。

創造神という「言葉」は、「自分以外の万物を創造した神」という理念を持っている。

なお、この理念は概念ということばと、当面同じと考えていい。


+++

神イメージの中身が、感慨であるのと理念であるのとでは、人の心理への影響が違う。

だが、そのことは次回以降にじっくり考えるとして、今回は、「感慨と理念の違い」をじっくり身につけておいてくれ。






新しい言葉を身につけるには、その知識を心に抱いたままで、しばらくいることだ。

心をそれに留め、黙想し、また自分の体験に照らし合わせてあれこれ瞑想する。

そこはかとなく・・・でいい。


これは学校で新しく学ぶ知識(学問知識)を身につけるときの秘訣でもある。

憶えておくといいよ。








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1. 「神イメージたち」を鳥瞰する〈2)

2018年03月07日 | 安全なキリスト教の学び方





図はつだけしか描けないのではない。

もうひとつ私は、こんな鳥瞰図も描いてみた。







これはこれでまた独自な方法で、神々全体を鳥瞰させてくれる。






<在物神ゾーン>

まず右側半分から見ていこう。

横軸の下には「在物神ゾーン」とある。

上には、そのゾーンに含まれる在物神の神々が例示されている。


+++


在物神には、巨木や動物や彫像など、物質に染み込んでいるとイメージされる神々がいろいろある・・・これは前に話したとおりだ。

だがこれらをこのように一つの領域にまとめて図示すると、「ああ、なるほどこれらはみな在物神なんだなあ」と明確になる。

前にも増してわかりやすくなっただろ?






<創造神は唯一者>


左側は創造神のゾーンだ。

非造形的記号、などのややこしい言葉は無視しよう。

あとで必要なときに説明する。

このゾーンには創造神だけが描かれている。

しかも一つだけだ。

+++

とうしてか?

創造神はただお一人だけしかいないからだ。

二人いたらおかしくなる。筋が通らなくなる。

たとえばもしA。、B二人いるとする。

するとBはAからすると被造物となる。

だってAからするとBは「自分以外の全て」に含まれるのだからね。

「Bよ,おまえはオレが創ったのだよ」となる。

それが道理だ。

+++

だがそれはBからしても同じなのだ。

Bからすると、Aは今度は「自分以外のすべて」に含まれる。

「Aよ,おまえはオレが創ったのだよ」となる。

ふたりがそう主張したら、ケンカになって収拾がつかなくなるだろう。

だから、創造神は「唯一者」なのだ。

図はそのことも示している。

今回はここまでにしよう。







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4.「神イメージたち」を鳥瞰する〈1〉

2018年03月06日 | 安全なキリスト教の学び方





これまでに人間が心に抱く神イメージには在物神と創造神があると、わかった。

今日は、それらの全体を、一目で眺めてみよう。






<全体を一枚の図にする>


一目で見るのを鳥瞰する、という。

鳥のように空に舞い上がって、上から見るのだ。

すると、下界は一枚の絵のように見えるだろう。

鳥瞰するには図に描いてみるのがいい。

そこで私は、次のようなものをかいてみた。











楕円形の内側には、在物神を三つ程画いている。

「物質」には、おのおの山とか巨木とか木像、石像など任意に想像したらいい。

そしてその中に、各々神(見えない影響者)がイメージされているというわけだ。


+++


楕円の外側は創造神だ。

この神は、内側の物質も神々もみな創ったとイメージされる神だ。

だから在物神たちより巨大だろうし、それらすべてを自らのふところの内に含んでいる、という感じにイメージしておいていいだろう。






<言葉とは別のメッセージ効果>


今回は、在物神も創造神も合わせて、このように一目で絵で見られるように示した。

前回までには、それを言葉で説明した。

それはそれなりに知識を造ってくれる。

だが、このように図式で鳥瞰図で示すと、そのイメージが突然ハッキリするだろう。

今回は、そういう「図式の効果」も記憶しておこう。








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3.外から来る神イメージ:創造神

2018年03月05日 | 安全なキリスト教の学び方





りんたろう君。

前回、人の心には在物神が自然に湧き上がる~と言ったね。

物の中に染み込んでいると想像される神イメージが、在物神だった。






<万物の創造神>


ところが、人類はあるとき、もう一つの神イメージをもつようになった。

「万物の創造神」略して創造神だ。

「万物」は自分以外のすべての存在。

これを創造した神、と言う意味だ。

ということは、「物質も、その中に内在するとイメージされる神々(霊)も」造ってることになる。

この神からすると、(他の)万物は「被造物(ひぞうぶつ)」ということになるね。





<様々な属性>

この神は、いろんな属性を、理屈として考えることが出来る神だ。

たとえばそれは、他の万物に「先行して」存在しているはずだ。

だって、「創造した」んだもんね。

物質も、その中にいるとイメージされる神々をも「あらしめた」んだもんね。




こういうことは、筋道、道理として考えられる。

人間には筋道を考える能力が与えられている。

これを理性という。

この理性を使って考えられるんだね。





<空間的無限者>


他にも例えば、無限大の大きさを持っている、というのもある。

これは直感的にもイメージできるだろう。

被造物に比べて、とてつもなく巨大だと。

だが、理性を使うとそれに留まることなく、その大きさは無限大とわかってくる。

だって、その大きさが有限ならば、その外側の物は「オレが造った被造物」とは言い辛いもんね。

どこまでも限りなく大きい。

無限大という記号(∞)は、算数(数学)でもやったよね。

創造神は、空間的に無限者なんだ。

+++


他にも色々ある。

それを一つ一つ知っていくのが、「創造神を知っていく」ことになる。

そして創造神を知るのはキリスト教の中心課題でもある。






<外から与えられる神イメージ>

今回は、以上のようなところだが、一つ追加しておくことがある。

それはこの創造神という神イメージは人の心に自然発生はしない、ということだ。

ではどうして心に存在することになるのか。

「外から与えられて」である。


+++


これを与えているのが、聖書というキリスト教の教典書物だ。

ここには、「(自分以外の)万物を創った創造神がいる」とのメッセージが記されている。

このメッセージを受容してはじめて、人の心にはその神イメージが存在するようになるんだ。

今回はここまでとしよう。








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2.心に自然に湧く神:在物神

2018年03月04日 | 安全なキリスト教の学び方





凛太朗君。
人の心には神のイメージが「自然発生」する~と前回話したよね。

この神イメージには共通の特徴があるんだ。

みな、目に見える「物質の中に染み込んでいる」と想像されることがそれだ。





<物質の中にいる?>


たとえば、山に入って巨大な樹木に対面すると、人は神秘的な気持ちになる。

そのなかに霊的な存在が染み込んでいると思うからだ。

・・・・・・・・
ちなみに「霊」というのは「見えない意識体」の総称だ。
神もその一つだ。
・・・・・・・

巨大な岩に対面してもそうだね。
思わず後ずさりして拝んだりする。

動物もそうだよ。

人は白い蛇のなかに神が染み込んでいるとイメージする。





<○○稲荷>


狐もそうだ。

狐は廃墟で見かけられることが多い。

廃墟というのは、何かそこに霊的なものがいそうな感じがする。
そこで狐をその化身のようにイメージするんだ。

そこで社を造って、そこに、食べ物などをおそなえしたりする。

食べ物も、油揚げが好物、などと勝手にイメージする。

また、狐は稲荷(五穀を司る神)の使いともイメージされた。

そのことから狐を祀った神社は「お稲荷さん」とも呼ばれた。

次いで油揚げもまた「お稲荷さん」と呼ばれるようになった。

ある程度風習が出来ると、人々は怖いのでそれに従う。

かくして、これが真理と思われるようになる。

+++

木材や石に彫った彫像もそうだよ。

人々は石の地蔵さんや木の仏像に手を合わせるでしょ。

墓石もそうだ。

人はその中に先祖の霊が入っていると思うから、花を捧げ手を合わせるよね。




<在物神>

がこれらはともかく、「物質の中に染み込んでいる」と想像される神イメージだ。

そこでこれに名前を付けよう。

在物神(ざいぶつしん)だ。

「物」の中に「在」るとイメージされる「神」だからね。


リン君、今回はこれまでにしておこう。










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1.人は「神イメージ」を抱く生きもの

2018年03月03日 | 安全なキリスト教の学び方






りんたろうくんは小学校五年生の男の子。

幾分早熟気味で、人間のこと、世の中のこと、に興味を覚え始めている。

話は、彼に向かって語られる。

では、はじめよう。





キリスト教は宗教の一つだ。

宗教、と言うと日本の大人たちは、「危険なもの」と連想する。

貴君もそういう空気の中で成長していくことになる。

キリスト教についても、知らず知らずのうちに恐怖感を抱くことが起きるだろう。

だから、敢えて「安全な」学び方を意識して話をしようと思う。





<神は「見えない影響者」>


宗教には必ず神様とか神とかが出てくる。

人間はみな、神というイメージを心に抱くからだ。

神とは一言で言うと、「見えない影響者」だ。


+++

我々人間には、五感がある。

五感とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の感覚器官だ。

我々は、産まれてから、この五感でものごとを認知しながら成長する。


+++

だが、同時に、この五感でキャッチできないものをも、意識しながら生きている。

人は病気になる。

病気は苦しいし、痛い。

こういうとき、人は、「どうして病気になるか」と、その原因を考える。

そしてその原因が五感で認識できる時はいいが、そうでないときには「見えないもの」を意識する。

病気をもたらす怖い存在を想像する。

だから生きていれば必ず「見えない影響者」をイメージするのだ。


+++

それが鬼とか、般若とかである時もあるが、こういう「見えない影響者」をまとめて「神」といっている。

そういう怖い存在も、広い意味での神なのだ。

こうして人は「見えるもの」だけでなく、神イメージも抱きながら生きていくのだ。


リン君、今回はここまで、としよう。








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=安全なキリスト教の学び方=

2018年03月03日 | 安全なキリスト教の学び方








2018年(平成30年)、春ですね。


これから「安全なキリスト教の学び方」というテーマで話を始めます。

聖句主義、バイブリシズムについてはまだまだ言いたいことありますが、

それらはまた<臨時版>として途中に挿入することにします。

では、次回から、このカテゴリーで話します。

ご期待下さい。





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聖句主義への無知が産む弊害

2018年03月01日 | 政治見識のための政治学






バイブリシズム(聖句主義)という活動を理解するのは難しいですね。

もう少し説明を追加しましょう。





<知らないことの弊害からアプローチ>


今回は「聖句主義を知らないが故の弊害」をあげつらってみましょう。

まず、「聖句は膨大な内容を持っていて、絶対的な解読は人間にはほとんど出来ないという認識が曖昧になる」という事象から。

聖句主義はその認識を肝に据えて、そこから~ある意味、開き直って~出発しています。

ところがこの行き方を知らないと、そのあたりが曖昧なままになります。

+++

そして、漠然と解読出来ると思ったりして解読を試みますが、毎回、上手く行かない。

そこで、、これは自分の知力が足りないからではないか、と思ったりもします。

「密かに」そう思う。 だってばれたら「あいつは駄目だ」と烙印を押されることを恐れますからね。

そして、こういうことを繰り返していると、人間の心は萎縮していきます。






<「救い」の確信も>


たとえばこれはいわゆる「救い」への確信にも影響しています。

「正しい」解読があると思っているので、自分の聖書解釈では「救われないのでは・・・」と漠然と感じることになる。

その結果、「救い」への解釈も浅いものとなり、怖くなって萎縮することにもなるのです。


+++


こうなると~「確信のない」聖句解釈状態で~誰か他の人(牧師さんとか、三浦綾子さんとか)の解釈にしがみつく、ということもします。

そして、一旦しがみつくと、他者に向かってはそれを自己の見解だと断定的に表現しやすくなります。

こういう人はまた、他の解釈を見ると「異端!」とヒステリックに非難したりもします。


+++


もうどうしょうもない・・・といった感じですが、理由は次のところにあります。

実は、確信無く鵜呑みした他人の解釈は、人間の意識の中で不安定な状態にあるのです。

すると人はその不安感から逃れようとして他者を非難します。

他者を非難してると、一時的に自分の解釈が確信あるもののように錯覚できますからね・・・。


+++


余談ですがここには「キリスト者の自由」はありません。

またこうした信者の群れに、ビジネスマンなど知的な一般人が加わりたいと思うことは、ほとんど起きません。







<全般的影響を示唆する事例>


話を戻します。

バイブリシズムへの無知が、広く日本人の思考全般をを萎縮させていることも示唆する事例を、鹿嶋のこのブログへのコメントでもって示してみましょう

このブログでひところよくコメントを書いて下さった方に「石ころ」さんというペンネームの方がおられました。

彼女など、ひたすら福音の真髄を求め続けておられて、台所で料理しているとき、突然聖霊を受けた人でした。

その彼女ですら、こんなコメントを寄せてこられました。


(コメント)

・・・・・・・・・・・・

主を知る自由を知りました (石ころ)

2006-07-26 07:21:35

初めまして、何時も学ばせて頂いています。

始めて(バイブリシズムの思想を)目にしたときには、かなりショックを受けました。

20年以上の信仰生活の中で、このように聖書を読む事が許されるのだとは、思いもつきませんでした。

しかし、間違いに出会ったときの、ザワザワとした違和感はありませんでした。

新しい自由を知って、「・・すべからず、・・すべし」は、主を探求していないと思えるようになりました。

「吟味しなさい」というみことばは、誰にでも、御霊の導きがあるということだと思っています。

何も恐れることはない、主を知りたいとワクワクして読ませて頂いています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



+++


~次の方も教理統一主義的な思考に流れる傾向を言っておられます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
はじめまして (Cissac)

2006-07-31 11:51:22

はじめまして、lukeさんのページで紹介があり、そこから飛んできました。

4年ほど前にイエス様を救い主として受け入れた者です。


聖句主義、教理主義とありますが、聖句を追求すると言いながらも

知らぬ間に教理でガチガチ

ということもあるのかなと思っています。

(後略)
・・・・・・・・・・・・・・


+++

~次の方、SAITOHさんは、鹿嶋に代わって解説して下さっていますが、同時に、やはり、日本人は教理統一方式敵思考に流れやすいことを指摘されています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自ら考えることがカギ (SAITOH)

2006-07-27 01:51:44

まず、自分で考えること、探求し続ける姿勢が大事なのだと思いますよ。人生の問題に正解はないように、聖書の解釈にも解答はありません。

知れば知るほど、面白みが増してくる、と同時に自分の愚かさも見えてきて、人の意見を聞こうと思うようになります。

枠が必要だと思うなら、使徒信条、あるいはニカイア信条あたりで、十分なのではないでしょうか。仮に、それにも囚われずに解釈するとしても、解釈するだけなら問題はありません。

特定の立場、教義を絶対視してしまうことが問題なのです。

しかし、往々にして、そうなってしまいがちですね。

そして、特定の教理を選び取って、それに従うこと(悪く言うと思考停止ですけど)がキリスト教信仰だと考えている人が多いようにも思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回はこれくらいにしておきましょうか。







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