Sightsong

自縄自縛日記

沖縄ジュゴン訴訟(1)

2008-02-03 23:59:59 | 環境・自然

辺野古基地建設により沖縄のジュゴンの生育が脅かされることについての裁判(沖縄ジュゴン訴訟)の判決が出された(2007年1月24日)。

原告は日米両国の自然保護団体やジュゴンなど、被告は米国の国防総省とラムズフェルド国防長官(当時)、根拠法は米国の文化財保護法(NHPA)である。米サンフランシスコの連邦地方裁判所による判決は、国防総省のNHPA違反だった。ジュゴン保護を願い軍備強化に反対する人々にとって、明るいニュースだということになる。

米国の裁判所には、地方裁判所の上位に控訴裁判所、さらには最高裁判所があるため、これが最終的な決着ではない。従って、国防総省は今後控訴できるが、これはまだ決めていないようだ。 なお、2003年に提訴されたこの訴訟は、2005年3月2日、地裁による判決が下されてはいる。これはMHPAが沖縄のジュゴンに適用できるとした「入口論議」判決であり、今回の判決はその後の実質審理を経たものである。

私たちにとって、この判決が持つ意義は何か。

一、基地建設を違法とする根拠を知る。

二、当の米国ですら行き過ぎた権力への歯止め(司法)が存在することを知る。

三、日本の国内法との違いについて考える材料となる。

一と二については、『南の島の自然破壊と現代環境訴訟』(関根孝道、関西学院大学出版会、2007年)および今回の判決文をもとに整理する。三については難しいが、とりあえず考え始めてみようと思う。


藤田敏八は恥ずかしい(2) 「ロッポニカ」の『リボルバー』

2008-02-03 21:57:20 | アート・映画

藤田敏八の監督デビュー作『非行少年 陽の出の叫び』(1967年)と、遺作『リボルバー』(1988年)を観た。既に『非行少年・・・』は、後の作品に共通する暑苦しさ、鬱陶しさ、邪魔くささで埋め尽くされている。一応最後まで面白く観たが、一方で、なんで時間を割いてまでこのような映画に付き合わなければいけないのだろう、と自虐的な気持になる。

一方、『リボルバー』は多くの同時発生的なエピソードを紙縒りのようにまとめあげていき、監督の手腕として見事だとおもった。群像劇といえばロバート・アルトマンの名前が出ることがあるが、関連なさそうな話同士が絡み合っていく快感は、ペルーの作家マリオ・バルガス・リョサの『緑の家』を思い出させたりもする。沢田研二、尾美としのり、柄本明、手塚理美なども芸達者で楽しい。

この映画の名前に関連して覚えていたのは、当時日活がロマンポルノなどの路線からの脱却を図り、「ロッポニカ」名で一般映画の製作を始めた挙句、半年で倒れてしまったことだった。高校生の頃、『朝日新聞』にこの映画が紹介されていたが、邦画低調期にあり成功を懐疑的にみる記事だったと思う。いま調べてみると、「ロッポニカ」名では、他に実相寺昭雄の『悪徳の栄え』などわずかの本数が作られただけのようだ。『リボルバー』にしても、実相寺にしても、明らかに大ヒットするような類の映画ではない。

ちょうど昨年末に文庫で原作『リボルバー』(佐藤正午、1985年、光文社文庫)が再発されていたことに気づいたので、読み比べてみた。土俵が異なることを承知でいえば映画の圧勝。拳銃を奪われる警官(沢田研二)や愛人に結婚されてしまう拳銃泥棒(小林克也)などの情けないエピソードを追加し、原作では簡単に感情移入できる人物が駄目コンビ(柄本明・尾美としのり)2人だけなのに対し、多くのキャラクターを立たせている。最後に、警官(沢田)がバーの女性(手塚理美)の元に戻るかどうかの違いは、どっちもどっちか。

小説の解説では、すぐれている点として、会話にまとわりつく空気感のようなものを挙げている。これは映画にも共通しているのだが、さらに映像であるため、80年代バブル景気時代のトホホな空気も閉じ込めているのである。ちょうど、そのころの流行歌のCDセットを宣伝するTVショッピングで、カラオケ映像のようなものを歌とともに延々流すのをつい見続けてしまうときの気分、のような情けなさと恥ずかしさ。

●参考 藤田敏八は恥ずかしい