デヴィッド・ハーヴェイの大作『新自由主義 その歴史的展開と現在』(作品社、2005年)をようやく読んだ。
格差社会、地方切り捨て、弱者切り捨て、それから米国の好戦など、いくつもの亀裂が隠しようもない状態になっているいまにあって、その諸悪の幹を、米国発祥の新自由主義(ネオリベラリズム)に見出し、告発する書である。
新自由主義は、経済主体も、財も、サービスも、それこそ個人の幸福をも、経済ユニットに分割し、権力が介入しないことによる最適化を掲げている。ハーヴェイが主張し続けるのは、現実に起きている様々な矛盾や社会的不平等の拡大は、新自由主義的な理想が実現するための過渡期にあって出てくる副産物ではなく、それらの亀裂こそが新自由主義の本質であり、存在意義であるということだ。また、(一応は)近代社会において私たちが信じ込んでいる、個人の自由や自己実現という陥穽があることにも改めて気づかされる。
ハーヴェイは指摘する。
●市場の自由を標榜しながら、実は逆に、ナショナリズムが効率的に機能する仕組になっている。
●新自由主義は権威主義であり、大きな者はより大きく、小さな者はより小さくなっていく。そこには対称関係はなく、権力関係のみがある。
●競争は理想的・美徳的には働かず、儲け本位が支配し、少数の大企業や支配者に権力が集中する。メディアもそうであるから、ニュースの多くはプロパガンダに堕してしまう。
●自由は企業の自由に還元され、あらゆるものは(人の価値やつながりも)商品と化し、社会的連帯は崩壊する。
そして、考察が進むほど、新自由主義は強者のみの競争ゲームであり、新保守主義(ネオコン)と表裏一体の関係であることが見えてくる。現象としての社会的秩序や道徳の崩壊について、その原因に気づかずして、見せかけの教育改革などで覆い隠そうとするネオコン的政策が、いかに欺瞞的であるかということも。
問題の構造は繰り返し聴かされるとして、それでは、社会的連帯や環境や福祉や安心といった「埋め込み」を取り戻し、理想との乖離から民主主義を引き戻すために、どうすればよいのか。ネグリ/ハートのような脱中心主義的・分散主義的な力の生起にも、コモンズの特別扱いにも、言及がなされている。しかし、ハーヴェイの示唆は充分ではない。というよりむしろ、それを必死に考えるための問題提起がなされていると考えるべきなのだろう。ただ、個人という(新自由主義の意味するものとは違う)ユニットでの働きかけが必要とされていることは間違いないだろう。
「このように、「ただ自由企業を擁護するだけのもの」へと新自由主義的な堕落を遂げた自由の概念は、カール・ポランニーの指摘によれば、「所得・余暇・安全を高める必要がない人にとっては自由の充足を意味するが、財産所有者の権力からの避難場所を手に入れるために民主的な権利を利用せんとむなしい試みをするかもしれない人にとっては、ほんのわずかの自由しか意味」しない。」