渋谷アップリンクXで、『おいしいコーヒーの真実』(マーク・フランシス、ニック・フランシス、2006年)を観た。エチオピアのコーヒー農家を上流とすれば、下流は嗜好品や日常的な消費財となる。映画は、その両端を交互に示すことにより、矛盾を誰の目にも明らかなものにしようとする。
エチオピアはコーヒーの生まれた国として紹介される(実際のところは、シバの女王とまったく同様に、イエメン説とエチオピア説とがある)。そこで、この映画で大きくフィーチャーされる、農家に多くの収入をもたらそうと努力する取次人が、農民たちに「このコーヒー豆から出来るコーヒーを、先進国では幾らで売っていると思う?」と問う。農民たちは想像もできない。一次買上価格の100倍を超える価格を示されたとき、あまりの非現実的な乖離に、彼らはとまどう。このアンバランスな流通構造を、知らされていないのである。
これが貧困と直結している。現在の買上単価を最終消費価格の1%とすれば、これが5%となれば生活は劇的に改善し、10%となれば生活のみならず教育も改善するという構造改革となることが示される。10%であっても、100%のうちの取り分なのであり、どう考えても不当ではない。
現在のコーヒーの国際価格は、かなりニューヨークの取引所における指標が左右している。そして、取次人によれば、流通プロセスにおいて6回の取引があり、この利益構造に手を入れれば、原価の60%を削減できるはずだとする。当然、浮いた利益は、生産者のものとなるべきだ、という前提だ。
一方、取引所などを通さない流通を志向する下流部の人々には、このようなフェアトレード的な発想だけでなく、「いいもの」だから選ぶのだという嗜好の極みもある。もちろん悪いことではない・・・がしかし、流通の末端の大手コーヒーショップ(シアトルに1号店がある・・・)において、サービス展開している姿は、どうしても浮かれたものに見えてしまう。むしろ、この映画はあえて意地悪な仕掛けをすることで、もっと上流に思いを馳せようよというメッセージを発信したいのだろう。
エチオピアのコーヒー農家のなかには、より儲かる「チャット」の栽培に切り替えるところもあるようだ。映画では、「チャット」はアフリカでは消費されているが欧米では禁止されている麻薬的なもの、として紹介されている。イエメンにおける「カート」と同じものだろう。ただイエメンでは、カートは対人関係をスムーズにするための嗜好品であり、「悪い麻薬」的に扱うこと自体が西側的ではないかと感じた。
踏み込みに迷いが感じられるのはもうひとつ、WTO(世界貿易機関)の紹介の仕方だ。この、GATT時代から「例外なき関税化」を進め、グローバルに平準化された貿易を志向する取り組みは、実際には、大国(米国)が市場を拡大するための装置になっている側面がある。映画では、アフリカ諸国は、欧米はWTOの理想どおりに自国内の農業保護を撤廃しろ、そうすればアフリカにも富がもたらされる、と主張している。しかしこれは、農業全般の話であり、主に途上国で生産されるコーヒーのことではない。また、WTO的なグローバル化が貧困の解決に向かうとは思えない。各国内の農業保護は必要な面もあるだろう。このあたりも、認識したうえでの確信犯的な映画作りなのだろうか。
気になる点はありつつも、「おいしいコーヒーの真実」がこの映画には散りばめられている。何しろ、私たちはコーヒーショップやスーパーの棚のなかには、そこにコーヒーが辿りつくまでの姿を垣間見ることはまったくできないのであり、見ようとしないことは罪と言うことすらできるのだ。
●参考 「Coffee Calculator」 映画(原題『Black Gold』のウェブサイトにある)