『インパクション』163号(インパクト出版会)では、「沖縄―何が始まっているのか」特集が組まれている。表紙は辺野古の海岸、キャンプ・シュワブとの境界を示す鉄条網である。
一読、いくつも示唆的な箇所があった。大上段の抽象的・観念的な運動ではなく、自分たちの日常や身体と直結した意識に基づいた働きかけが必要だ、とする声が目立つようにおもった。すなわちそれは、社会生活や政治舞台を問わず、何気ない素振りのひとつひとつに対して、軍隊的論理や暴力容認の論理を見出し、顕在化していくことを意味するのだろう。
以下、勝手に抽出して書き換えてみる。(敬称略)
○抵抗の身振りにおいて、「地元」だからという言い方は、NIMBY(Not In My Back Yard)と見なされてしまう危うさがある。住民運動を、外に開かれた形で展開すれば、地域エゴには陥らないかもしれない。そもそも、短期的に移動できる世界では、「地元」という意味を問い直さなければならない。(阿部小涼)
○基地問題などにおいて影響を受ける者の反発の声は、単に「反ヤマト」的な陰の声で終ってしまっている。これが、実はタブーであるとする監視社会の形成につながっている。若い世代の間には、基地に対する諦念や悲愴感さえある。(新垣誠)
○大括りの「基地や軍隊への反対」ではもはや不充分であり、豊かな内実を帯びた具体化が必要となっている。そのためには、自らの身体と直結した社会の暴力をひとつひとつ射抜いていかなければならない。その対象は、性暴力であり、社会の軍事化である。(鳥山淳)
○地下に流れ続けている行き場のない痛念を、生命として、言葉に置き換えていく意義は大きい。(森宣雄)
○事件に呼応して、その感情領域を政治の問題として解消しようとする解説的な(号令する)感性を問題視しなければならない。その解説や号令には優先順位が付けられ、何かに奉仕する。そうではなく、感情や受苦に直接つながる身体との関係こそが重要である。(鄭柚鎮)
○観光や均質な都市空間の形成は、狂気の封じ込めでもあった。そのような世界では、「事件」により誰かの受苦が明るみに出てはじめて、問題の構造が垣間見られる。植民者(ヤマト)および被植民者(オキナワ)の両者が、「事件」前夜において、自らの植民性・被植民性に自覚的にならなければならない。(桃原一彦)
○基地のフェンスやその向こうが見えているからといって、実の視線や意識がボーダーを超えることとはならない。日常や身体にどれだけの<暴力>が浸透しているかを意識上に持ってこなければ、内実のない観念に終ってしまう。(仲里淳)
○子どもたちが幼稚園で歌う「桜咲いたら一年生」は、1月に桜が咲く沖縄にあっては、自ら本土に同化し、沖縄の現実から目をそむける素振りに他ならない。(知念ウシ)
○軍事主義、性暴力が起きる構造やそれに対する呼応は、家父長制と重なってくる。(秋林こずえ)