柳田國男『海南小記』(旺文社文庫、原著1925年)を読む。1920-21年、柳田は九州を経て沖縄への旅に出た。本書はそれをもとにした記録である。
ここにはまだ、柳田が晩年に『海上の道』において主張する、琉球を日本の原型であるとする願望論はさほど姿を現していない。むしろ、さまざまに収集する琉球のフォークロアを愉しみ、ヤマトゥのそれとの比較に夢中になっているという印象である。憧れも隠すことができない。
「我々が大切に思う大和島根の今日の信仰から、中代の政治や文学の与えた感化と変動とを除き去って見たならば、こうもあったろうかと思う節々が、色々あの島には保存さられてあります。」
そのような中で、たとえば「阿遅摩佐の島」において、蒲葵=檳榔=コバ(クバ)の拡がりをもって、「畢竟はこの唯一つの点をもって、もと我々が南から来たということを、立証することができはしまいかと思うからであります。もちろん断定は致しませぬ。」といった踏み込みにとどまっている。あるいは、南の島は生活が厳しく、他の島が見えるため、堪えられずに移動を続けたのだという発想が貫かれている。
博学なフォークロア収集家の旅行記としては大変面白い。
○源為朝伝説を、琉球にとってのニライ神来訪と重ね合わせている。
○ヤードゥイ(原屋取=首里の困窮士族が拓いた地)の存在が、「争うて好い児を育て、家運を興そうとする努力が、附近にいる旧住民のためにも一つの刺激になってきた」と位置づけている。
○このころ、病院の見舞い品が刻み煙草から豆腐になってきたとしている。
○沖縄のことばによって本を書く運動は、標準化に乏しいため、「徒労に帰する」と予測している。むしろ、伊波普猷がヤマトゥのことばと沖縄のことばとを併用していることを好ましくみている。もちろん柳宗悦の方言論争を参照するまでもなく微妙な視線だ。
○干瀬(サンゴ礁のリーフ、ピシ)を巡る話が豊富である。糸満では宝貝を刺網の錘に使っていたという。老いた父を干瀬に騙して取り残し、満潮により亡き者にしようとした息子が報復に逢う話がある。(千夜一夜物語のようだ。)
○泡盛はかつて米でなく粟でつくられており、今のものよりもずっと辛く強かったという。
○石敢当はかつて、この高さより身長が高くなっていたら人頭税を課しはじめるために作られたという説が、宮古島にあるという。
○石垣島の祭に残る来訪神・マユンガナシは、もともと「まやの神」と言われており、その名の通り(マヤー=猫、かなし=持ち上げることば)、牡猫雌猫の面を被って出てきたという。
○(沖縄とは関係ないが)ヤマトゥのあちこちに残る「炭焼小五郎」の話は、かつて鋳物職人が特殊技能を持つ漂泊者であり、ことばの類似から「イモ掘り」や、製鉄に使うことから石炭が、話の中に取り込まれたのだと分析している。
●参照
○村井紀『南島イデオロギーの発生』
○伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
○伊波普猷『古琉球』
○屋嘉比収『<近代沖縄>の知識人 島袋全発の軌跡』
○与那原恵『まれびとたちの沖縄』
○岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』
○島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想
○島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
○島尾ミホさんの「アンマー」
○齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
○西銘圭蔵『沖縄をめぐる百年の思想』
○『海と山の恵み』 備瀬のサンゴ礁、奥間のヤードゥイ
○戸邊秀明「「方言論争」再考」 琉球・沖縄研究所
○『石垣島川平のマユンガナシ』