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自縄自縛日記

大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』

2011-07-09 13:10:27 | 沖縄

大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』(同時代社、2010年)を読む。明日、大田氏の講演を聴きに行く予定なので、その予習でもある。

本書の構成は大きく2つに分けられる。前半は、琉球・沖縄が置かれた<構造的差別>の歴史、後半は、普天間・辺野古など基地についての論考である。

明治政府の琉球藩(および琉球処分後の沖縄県)に対処する方針を示した文書を読むと、確かに、ヤマトゥの一部ではなく植民地としか見なさない視線、また、琉球・沖縄の政府もそれに追従して住民に背を向ける姿、すなわち現在との相似形を見てとることができる。そして、沖縄の処遇は敗戦後米国によって一方的に定められたのではなく、天皇や外務官僚など日本政府も一体となっての合作であったことも。

1970年代に明るみに出たにも関わらず、いまだ沖縄以外では健忘されている「天皇メッセージ」。昭和天皇は、米国が沖縄の軍事占領を継続し、それを日本に主権を残したままでの長期租借という擬制に基づく形にするよう、米国に伝えた。ヤマトゥを護るために、沖縄を差し出したのであり、それは戦時の本土防衛のための捨て石と同じ構造であった。また、日本国憲法第九条の成立過程については非常に多くの議論があると思うが、ここでは、天皇制存続のための引き換え条件であったという論を展開している。この過程を経て、既存の政治体制を間接的に利用した米国の占領が完成した。

「もし、日本本土が沖縄と同じように直接軍政下におかれていたのなら、あるいは、戦後沖縄の苦難にみちたいびつな歩みについても、また現在に至るまで安保体制の負担を一方的に押しつけられている不当さについても、わが身のこととしてもっと身近に感得しえたかもしれない。だが、そうではなく日本本土が間接占領下にあったことから、占領軍の施策・言動にたいする人びとの評価も、直接占領下の沖縄とは、あらゆる意味で大きな開きがあったことは、否めない。」

本書後半の、辺野古での新基地建設(あるいは、ここでも、移転という擬装)に関する検証は素晴らしい。1960年代から辺野古は狙われており、大浦湾の軍港化もその目的のひとつだとかねてから言われているが、ここでは、多くの米国・米軍資料をもとに、論破不可能なほどにそれを確かめている。そして、普天間をはじめ多くの米軍基地を単純撤去するチャンスは幾度となくあったにも関わらず、1995年の米兵少女暴行事件に端を発した基地縮小を新基地建設とのパッケージにすり替えてしまった橋本政権、米国にすり寄った小泉政権をはじめ、外交の失敗が問題を拡大し続けていることをも示している。

さらに興味深いのは、新基地建設によって利益を得るはずの事業者がからみあった利権構造である。例えば、埋め立てに関して海砂業者が控えているのだろうということは頭にあったが、本部半島の琉球石灰岩もそこに噛んでいたとは気がつかなかった。


琉球セメントの採掘する石灰岩、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

●参照
二度目の辺野古
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
名古屋COP10&アブダビ・ジュゴン国際会議報告会
ジュゴンの棲む辺野古に基地がつくられる 環境アセスへの意見(4)
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
押しつけられた常識を覆す


『東京のコリアン・タウン 枝川物語』

2011-07-09 08:42:20 | 韓国・朝鮮

枝川に焼肉を食いに行こうと思い続けているうちに時間が経ってしまった。興味があったので、江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会『東京のコリアン・タウン 枝川物語』(樹花舎、増補新版2004年)を読む。大阪の鶴橋(猪飼野)済州島四・三事件(1948年)と切り離せないように、枝川の成り立ちは東京都(東京市)の差別的政策に因っている。

1910年、韓国併合。1919年、三・一独立運動。1923年、関東大震災。このとき東京府に居住するコリアン5500人のうち1300人が数日間で虐殺された。そして1941年、東京市により枝川に朝鮮人集合住宅が建設され、江東区内のコリアンが強制的に1ヵ所に押し込められた。枝川の敷地の一角には「隣保館」が建ち、そこでは同化・皇民化教育の強制がなされていた。当時の枝川は劣悪な環境の埋立地であったという。このように、一貫して排外的、蔑視的、監視的な政策が取られてきた歴史がある。

日本の敗戦後は、韓国への帰国や1959年からの「北朝鮮帰国事業」などにより急減することはあっても、枝川はずっとコリアンタウンであり続けている。皇民化教育を行っていた「隣保館」が現在では「東京朝鮮第二初級学校」となっているのは皮肉なことに違いない。2003年に石原知事の東京都がその土地明け渡しと地代の支払いを求めるという、歴史的文脈を無視した提訴をしているが、2007年には和解に至っている。

このような弾圧政策は石原都政ではじまったわけではない。そのあたりの実態が、本書に多く収められた聞き書きにある。

1949年、深川事件(成田事件)。捜査のために集落に入った警官が被疑者を至近距離から撃った。住民が怒り、それに対し警官600人が集落を包囲、6人を逮捕。
1952年、メーデー参加の容疑者捜査という名目で警官1000人が集落を包囲、21人を逮捕。

行政の差別政策であるだけでなく、メディアも「事件」や「集落」をセンセーショナルに書き立て、差別感情を煽っていた。程度はともかく、その構造は現在につながっている。参政権の問題もその文脈で考えるべきだろう。

ところで、興味深い話があった。唐辛子豊臣秀吉の侵略戦争とともに朝鮮半島に伝わったとされている(>> リンク)。一方、チェサ(朝鮮の祭祀)の儀礼準則ができたときには唐辛子伝来前であり、当然キムチもなかった。そんなわけで、キムチを供えては駄目だとする家もあったそうである。

●参照
赤坂コリアンタウンの兄夫食堂(赤坂)
林海象『大阪ラブ&ソウル』(鶴橋)
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』(鶴橋)
梁石日『魂の流れゆく果て』(鶴橋)
鶴橋でホルモン(鶴橋)
野村進『コリアン世界の旅』
朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』
『世界』の「韓国併合100年」特集
尹健次『思想体験の交錯』
尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
金石範『新編「在日」の思想』
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
李恢成『伽�塩子のために』
李恢成『流域へ』
朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』(唐辛子伝来)
朴寿南『アリランのうた』『ぬちがふう』
『弁護士 布施辰治』
布施柑治『ある弁護士の生涯―布施辰治―』