大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』(同時代社、2010年)を読む。明日、大田氏の講演を聴きに行く予定なので、その予習でもある。
本書の構成は大きく2つに分けられる。前半は、琉球・沖縄が置かれた<構造的差別>の歴史、後半は、普天間・辺野古など基地についての論考である。
明治政府の琉球藩(および琉球処分後の沖縄県)に対処する方針を示した文書を読むと、確かに、ヤマトゥの一部ではなく植民地としか見なさない視線、また、琉球・沖縄の政府もそれに追従して住民に背を向ける姿、すなわち現在との相似形を見てとることができる。そして、沖縄の処遇は敗戦後米国によって一方的に定められたのではなく、天皇や外務官僚など日本政府も一体となっての合作であったことも。
1970年代に明るみに出たにも関わらず、いまだ沖縄以外では健忘されている「天皇メッセージ」。昭和天皇は、米国が沖縄の軍事占領を継続し、それを日本に主権を残したままでの長期租借という擬制に基づく形にするよう、米国に伝えた。ヤマトゥを護るために、沖縄を差し出したのであり、それは戦時の本土防衛のための捨て石と同じ構造であった。また、日本国憲法第九条の成立過程については非常に多くの議論があると思うが、ここでは、天皇制存続のための引き換え条件であったという論を展開している。この過程を経て、既存の政治体制を間接的に利用した米国の占領が完成した。
「もし、日本本土が沖縄と同じように直接軍政下におかれていたのなら、あるいは、戦後沖縄の苦難にみちたいびつな歩みについても、また現在に至るまで安保体制の負担を一方的に押しつけられている不当さについても、わが身のこととしてもっと身近に感得しえたかもしれない。だが、そうではなく日本本土が間接占領下にあったことから、占領軍の施策・言動にたいする人びとの評価も、直接占領下の沖縄とは、あらゆる意味で大きな開きがあったことは、否めない。」
本書後半の、辺野古での新基地建設(あるいは、ここでも、移転という擬装)に関する検証は素晴らしい。1960年代から辺野古は狙われており、大浦湾の軍港化もその目的のひとつだとかねてから言われているが、ここでは、多くの米国・米軍資料をもとに、論破不可能なほどにそれを確かめている。そして、普天間をはじめ多くの米軍基地を単純撤去するチャンスは幾度となくあったにも関わらず、1995年の米兵少女暴行事件に端を発した基地縮小を新基地建設とのパッケージにすり替えてしまった橋本政権、米国にすり寄った小泉政権をはじめ、外交の失敗が問題を拡大し続けていることをも示している。
さらに興味深いのは、新基地建設によって利益を得るはずの事業者がからみあった利権構造である。例えば、埋め立てに関して海砂業者が控えているのだろうということは頭にあったが、本部半島の琉球石灰岩もそこに噛んでいたとは気がつかなかった。
琉球セメントの採掘する石灰岩、2007年末 Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ
●参照
○二度目の辺野古
○高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
○名古屋COP10&アブダビ・ジュゴン国際会議報告会
○ジュゴンの棲む辺野古に基地がつくられる 環境アセスへの意見(4)
○『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6)
○屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
○渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
○押しつけられた常識を覆す