Sightsong

自縄自縛日記

『Rocket Science』

2013-11-21 22:37:05 | アヴァンギャルド・ジャズ

『Rocket Science』(Moreismore Records、2012年録音)。グループ名義のセッションだが、ここでの目玉は、やはり、巨匠エヴァン・パーカーピーター・エヴァンスがいかに絡んでいくか。

Evan Parker (ts, ss)
Peter Evans (tp, piccolo tp)
Craig Taborn (p)
Sam Plura (laptop)

実にファンタジックな1時間のライヴである。このような場に居合わせたとしたら、朦朧として、しばらくは現実世界に戻ることができないだろう。

重力を失った時空間で絡むのは、パーカーとエヴァンスだけではない。ラップトップから発せられる電子音までもが、サックス、トランペットとともに組んず解れつ。彼らは決して同じ位相には居続けない。タテから見れば同じ場でのステップでも、ヨコから見ればなぜか別の場。あるいは、1周回れば別の複素平面。彼らが自在に行き来するのは、そんな抽象的な位相間である。

そのなかで、クレイグ・テイボーンのピアノは音楽に着地点を与えているような印象がある。もっとも、着地点なんてなくてもよいのではあるが。

●参照
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』
ピーター・エヴァンス『Ghosts』
ピーター・エヴァンス『Live in Lisbon』
1988年、ベルリンのセシル・テイラー(エヴァン・パーカー参加)
ネッド・ローゼンバーグの音って無機質だよな(エヴァン・パーカーとのデュオ)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(エヴァン・パーカーとのデュオ)
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(エヴァン・パーカー参加)
シュリッペンバッハ・トリオの新作、『黄金はあなたが見つけるところだ』(エヴァン・パーカー参加)
デイヴ・ホランド『Prism』(テイボーン参加)


J・M・クッツェー『The Childhood of Jesus』

2013-11-21 09:00:00 | 中東・アフリカ

J・M・クッツェーの新作『The Childhood of Jesus』(Viking、2013年)を読む。

クッツェーは南アフリカ出身のノーベル文学賞作家であり、ブッカー賞も2度受賞している。わたしは『夷狄を待ちながら』(1980年)と、ポール・オースターとの書簡集『Here and Now: Letters (2008-2011)』(2013年)を読んだことがあるだけだ。

モンゴルへの行き帰り、福岡への行き帰りと読み続けて、昨夜読了した。次の展開が気になってしまうストーリーテリングの技は、さすがである。

新しい地に、着の身着のまま辿り着いた男シモン。彼は、両親不明の幼児デイヴィッドを連れ、その母親を探しだすと心に決めていた。シモンは、難民収容施設を経て、港湾での力仕事に就き、友人や仲間も見つける。ある日、散策に出かけた里山で、テニスをしている女性イネスを目撃し、シモンは、彼女こそデイヴィッドの母親だと直感的に決めつける。隔離された環境で30歳近くまで過ごしてきた処女イネスはそれを受け容れるが、デイヴィッドを囲い込み、外の環境に接することを許さない。シモンの説得により、デイヴィッドは学校に通うようになるが、もはや自らの宇宙を持つデイヴィッドは、学校の社会から拒絶され、放逐される。当局はデイヴィッドを特別学校に強制的に入れようとし、シモン、イネス、デイヴィッドはそれを拒否する。そして、彼らは車に乗って、北へのあてのない旅に出る。見えてきたのは、再び、過去が関係のない新しい地であった。

またしても異人となることを繰り返す、終わりのない物語。読了後、肩すかしにあったような脱力感を覚えた。

この奇妙な物語世界は何だろうか。もちろん、タイトルといい、登場人物たちの名前といい、キリスト教に直接紐付けた寓話ではある。しかし、社会秩序や、性欲や、食糧や、言語や、労働の目的などを巡る哲学的な会話は、浅くて薄い。

港湾の倉庫にネズミが多すぎることについて、シモンは清潔にしてネズミを駆逐すべきだと主張する。それに対し、労働管理者は、食糧がこぼれていることによって、ネズミが生きているのだと語る。ネズミを生かすためにつらい労働をしているのか、いや世界はそのように己だけのために存在するのではない、というわけだ。面白くはあるが、たとえば、埴谷雄高『死霊』における生態系についての対話のほうが、遥かに思索的であり、狂気と笑いに満ちているものだった。

それとも、このペラペラの哲学的対話も、制度や規範に受容されない者たちの存在も、そして異人としての絶対的な出現も、固陋で自由からはほど遠い現代社会と宗教の歴史を、相対化して提示するためのものだったのだろうか。

●参照
ポール・オースター+J・M・クッツェー『Here and Now: Letters (2008-2011)』