Sightsong

自縄自縛日記

セシル・テイラー『Michigan State University, April 15th 1976』

2015-06-11 07:13:53 | アヴァンギャルド・ジャズ

セシル・テイラー『Michigan State University, April 15th 1976』(Hi Hat、1976年)を聴く。

Cecil Taylor (p)
Jimmy Lyons (as)
David S. Ware (ts)
Rache Malik (tp)
Marc Edwards (ds)

名盤『Dark to Themselves』の2か月前の記録であり、メンバーも同一。

いま聴くと、デイヴィッド・S・ウェアのテナーサックスが意外なほどスムーズに耳に入ってくるが、これは嬉しい発見かもしれない(実は割と避けて通ってきていた)。

それはともかく、エドワーズがどすどすとボディーを叩きまくる中、ウェア、ライオンズ、マリクが白髪一雄的な泥水と血の奔流を現出させ続ける。それはやはり圧倒的なのであって、ジッとして聴いていると、下流のどこかにあっという間に流されてしまいそうだ。そしてセシル・テイラーは幻の空中楼閣を、絶えず奔流の上に構築しては、その腕で自ら叩き壊す。聴く者の血は泡立つばかりなのである。

●参照
セシル・テイラー+田中泯@草月ホール(2013年)
ドミニク・デュヴァル セシル・テイラーとの『The Last Dance』(2003年)
セシル・テイラー+ビル・ディクソン+トニー・オクスレー(2002年)
セシル・テイラーの映像『Burning Poles』(1991年)
セシル・テイラー『The Tree of Life』(1991年)
セシル・テイラー『In Florescence』(1989年)
1988年、ベルリンのセシル・テイラー
イマジン・ザ・サウンド(1981年)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(1979~1986年)
セシル・テイラー『Dark to Themselves』(1976年)、『Aの第2幕』(1969年)
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(1968年)
セシル・テイラー初期作品群(1950年代後半~60年代初頭)


ガヤトリ・C・スピヴァク『デリダ論』

2015-06-11 00:35:19 | 思想・文学

ガヤトリ・C・スピヴァク『デリダ論』(平凡社ライブラリー、原著1974年)を読む。

ニーチェのいう力への意志が、その都度、何らかの語られるものと語られるものとのリンクによって絶えず生成するならば、ここで論じられるジャック・デリダは、語るものも語られるものも互いに権力関係を持たず、都度消えて、形而上学的な関係付けを許さない。それは権威の徹底的な否定であり、遊戯である。

「あれでもなく/これでもないということは、同時にあれでもこれでもあるということであり、あるいは、あれあるいはこれであるということです。」(ジャック・デリダ『ポジシオン』からの引用)

だからどうしたというのか。スピヴァクのテキスト自体はあまり魅力的なものではない。

●参照
ガヤトリ・C・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』(2010年)
ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(2006年)
ジャック・デリダ『言葉にのって』(1999年)
ジャック・デリダ『死を与える』(1999年)
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(1997年)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(1961年)(本書で引用)