Sightsong

自縄自縛日記

『Derek Bailey Plus One Music Ensemble』

2016-08-13 22:15:32 | アヴァンギャルド・ジャズ

『Derek Bailey Plus One Music Ensemble』(D & ED Panton Music、1973、1974年)を聴く。

Derek Bailey (g) (track 1-6)
David Panton aka One Music Ensemble (as, oboe, reed-fl, vo, p, perc, radio) (track 7-12)

デレク・ベイリーと「One Music Ensemble」ことデイヴィッド・パントンとが共演しているわけではなく、別々のソロ演奏をカップリングした盤である。かつてはレアだったもののようだが、いまは千円未満のCD-Rとして売られている。

何だか愉しそうにいろいろな楽器を駆使して遊んでいるパントンおじさんについては、よくわからないので置いておくとして(笑)。ベイリーのエレキギターによるソロは、その長い残響を利用しようとしたものか。録音が悪く音が籠っていることもあって、音切れが悪く、正直言って、まったく魅力を感じない。それとも第三の眼でも開けば面白くなるのだろうか。

これが録音されたのが1973年。たとえば、前々年に吹き込まれた『Solo Guitar Volume 1』(Incus、1971年)や、しばらく経ってからの『Solo Guitar Volume 2』(Incus、1991年)と聴き比べてみると、雲泥の差と言ってもいいほどの強度の違いがある。前者はキレが素晴らしい抽象的な印象で、ミシャ・メンゲルベルグ、ウィレム・ブロイカー、ギャビン・ブライヤーズの曲をも演奏している(特にブライヤーズの曲では、多重録音ではない形で、アコースティックギターを2本同時に弾いており、緊張して愉しい)。後者にはハーモニーもあってより親しみやすい。

 

●参照
今井和雄 デレク・ベイリーを語る@sound cafe dzumi(2015年)
デレク・ベイリー晩年のソロ映像『Live at G's Club』、『All Thumbs』(2003年)
デレク・ベイリー『Standards』(2002年)
ウィレム・ブロイカーが亡くなったので、デレク・ベイリー『Playing for Friends on 5th Street』を観る(2001年)
デレク・ベイリー+ジョン・ブッチャー+ジノ・ロベール『Scrutables』(2000年)
デレク・ベイリーvs.サンプリング音源(1996、98年)
田中泯+デレク・ベイリー『Mountain Stage』(1993年)
1988年、ベルリンのセシル・テイラー(1988年)
『Improvised Music New York 1981』(1981年)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(1981、91、98年)
デレク・ベイリー『New Sights, Old Sounds』、『Aida』(1978、80年)
ジャズ的写真集(6) 五海裕治『自由の意思』
トニー・ウィリアムスのメモ


原武史『<出雲>という思想』

2016-08-13 16:00:01 | 思想・文学

原武史『<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々』(講談社学術文庫、原著1996年)を読む。

日本神話における正統の最高神はアマテラス(天照大神)である。それは日本という国が、古代以降、大きな物語として構造化していった結果でもあって、弥生以降の日本において形作られてきた神話は、イザナギ・イザナミ~タカミムスヒ(・スサノオ・アマテラス)~オオクニヌシまでのものであった。記紀神話ではタカミムスヒとアマテラスとが同程度の場所を占め、やがて、タカミムスヒは忘れられていった。(溝口睦子『アマテラスの誕生』

それでは、スサノオ~オオクニヌシの系譜はどのように位置づけられてきたのか。荒ぶる神スサノオは、姉のアマテラスにも拒否され、また、息子オオクニヌシをもうける。かれは国を支配していたが、高天原からアマテラス直系のニニギノミコトが降臨してくるにあたり、国を譲り、出雲大社を与えられた。本書において追及されるのは、この「天孫降臨~国譲り」以降の位置付けである。

もとより、オオクニヌシが正式に出雲の祭神となるのは明治以降であり、それまでは出雲の神様は「大黒様」という現世的な神であった一方、室町以降、ダイコクつながりで大国主命=オオクニヌシと大黒とが同定され、江戸時代に入り、十月=神無月には全国の神様が出雲に集まるという縁結び信仰が一般化したのだという。いずれにしても、アマテラスもオオクニヌシも元は地方神なのだった。

18世紀になり、本居宣長が記紀や「出雲国風土記」を読み解き、アマテラス=「顕」、オオクニヌシ=「幽」と位置付けた。すなわち、オオクニヌシこそが「幽事」を支配するのであり、出雲の祭神のみならず、アマテラス以上の宗教的な権威を持つものとされたわけである。この思想は平田篤胤に継承され、「平田神学」として発展してゆく。

しかしながら、結果的には、文字通り「顕」の権力である明治新政府に取り入ることに成功したのは、「平田神学」の流れではなく、津和野出身者を中心とする勢力であった。これにより、国家権力を支える物語の中心はアマテラスとなる。そして、スサノオは悪しき神、オオクニヌシの役割も小さなものと化した。出口王仁三郎はスサノオとオオクニヌシを同定したが、「国体」「天皇制」と一体化した権力により大弾圧を受けたのであった(出口京太郎『巨人 出口王仁三郎』、早瀬圭一『大本襲撃』安丸良夫+菅孝行『近代日本の国家権力と天皇制』)。すなわち、敵は近代となってしまったわけである。

一方、出雲の大宮司となった千家尊福の尽力により、オオクニヌシの復権もあった。のちに埼玉県・静岡県・東京府の知事を務めるという、「幽」も「顕」も兼ねた人物である。なぜ最初に埼玉なのかということを、本書第二部「埼玉の謎」において探っている。もとより、埼玉県全域と東京都北部には、出雲~オオクニヌシ系の「氷川神社」が多い。そのもっとも大きな神社が大宮駅の近くにある。埼玉県の県庁がなぜ大宮でなく浦和になったのか、著者は、明確ではなくてもこのあたりの背景と関連付けようとしている。

いや実に面白い。伊勢や出雲を「パワースポット」として訪れる前に(行ったことがないが)、敗者の歴史としての本書、溝口睦子『アマテラスの誕生』、筑紫申真『アマテラスの誕生』、直木孝次郎『日本神話と古代国家』といった本のご一読を。もちろんそれぞれ主張は多少異なっているが、大きな国家の物語を唯一の正統とするよりは、混乱したほうが遥かにマシである。なお、白川静は、「思想は本来、敗北者のものである」と言った(『孔子伝』)。

●参照
溝口睦子『アマテラスの誕生』
「かのように」と反骨
三種の神器 好奇心と無自覚とのバランス
仏になりたがる理由
出口京太郎『巨人 出口王仁三郎』、早瀬圭一『大本襲撃』
『大本教 民衆は何を求めたのか』
安丸良夫+菅孝行『近代日本の国家権力と天皇制』
鶴見俊輔『アメノウズメ伝』
原武史『レッドアローとスターハウス』


カラテ・ウリオ・オーケストラ『Ljubljana』

2016-08-13 12:34:10 | アヴァンギャルド・ジャズ

カラテ・ウリオ・オーケストラ『Ljubljana』(clean feed、2015年)を聴く。

Carate Urio Orchestra:
Joachim Badenhorst (cl, bcl, ts)
Eirikur Orri Olaffson (tp, electronics)
Sean Caprio (ds, g, vo on track 5)
Brice Soniano (b)
Pascal Niggenkemper (b)
Frantz Loriot (viola, vo on track 7)
Nico Roig (g, vo impro on track 7)
Everyone (vo on track 1 and 5)

スロベニア・リュブリャナでのライヴ録音。なにが「カラテ」で「ウリオ」なんだろう。「空手」?「瓜男」? 7曲目「Sola ni mayagali」(空に舞い上がり?)では、ヴィオラのフランツ・ロリオが日本語の歌を披露しているから、日本と無関係でもなさそうである。

それはともかく、奇妙で面白いグループである。どの楽器も群衆の一員となり、ときにドローン的となり、動物的となり、群衆のなかで群衆に向けて音を披露していくような感覚。集団即興なのか、周到に組み上げられた曲なのか。ニコ・ロイグのギターが目立ってカッチョいい。また、ヨアヒム・バーデンホルストのクラリネットは実に巧みだ。

騒動をはさみつつ、ざわざわと群衆の音楽が積み重ねられてゆき、最後の曲「Vers la chute」では歓喜の合奏にいたる。ずっと付き合って聴いていると、少なからず感動する。なんだこれは。


アーチー・シェップ『Tomorrow Will Be Another Day』

2016-08-13 09:10:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

アーチー・シェップ『Tomorrow Will Be Another Day』(Pao Records、2000年)を聴く。

Archie Shepp (ts, ss, vo)
Amina Claudine Myers (p, vo)
Cameron Brown (b)
Ronnie Burrage (ds, wave drum)

『NYC5』、『Live in San Francisco』、『Mama Too Tight』、『The Way Ahead』、『Attica Blues』、『Steam』など、1960~70年代に残した作品がことごとく素晴らしすぎるため、またその後バイアスがかかった日本制作盤にも参加してしまったため、シェップが突破者でなくなった40歳頃よりあとの作品は、いまひとつ評価が低い。

たぶんその後のシェップは、シェップ自身を模倣する再生産の段階に入り、いまに至る。ヨアヒム・キューンとのデュオ『WO! MAN』(2011年)とか、ヨアヒム・キューン『Voodoo Sense』(2012年)とかを聴いたら、ちょっと哀しくなってしまった。

しかし、である。シェップのテナーの音は誰にも似ていないのであり、フォロワーもシェップにはなることができなかった。すばらしく味があるブルースを吹く人だと思って聴けば、やはりいいのだ。本盤録音の前年の1999年に、赤坂で、かぶりつきの席でシェップを2回観た。涎が頭に降り注ぐような場所だった。うっとりした。そういうことである。(ベースの水橋孝さんが飛び入りで参加し、シェップが「幸せな再会だ」と言っていた記憶がある。)

ここでは、アミナ・クローディン・マイヤーズがピアノを弾き、シェップとともに歌う。ゴスペルやブルースという彼女のルーツが存分に発揮されていて、甘い歌声にもやられてしまう。シェップもそうだが、この人も再来日してほしい。

●アーチー・シェップ
ヨアヒム・キューン『Voodoo Sense』(2012年)
アーチー・シェップ+ヨアヒム・キューン『WO! MAN』(2011年)
アーチー・シェップの映像『I am Jazz ... It's My Life』(1984年)
イマジン・ザ・サウンド(1981年)
アーチー・シェップ『The Way Ahead』(1968年)
サニー・マレイのレコード(1966、69、77年)
ロヴァ・サクソフォン・カルテットとジョン・コルトレーンの『Ascension』(1965、95年)
『Jazz in Denmark』 1960年代のバド・パウエル、NYC5、ダラー・ブランド(1962、63、65年)
セシル・テイラー初期作品群(1950年代後半~60年代初頭)

●アミナ・クローディン・マイヤーズ
ヘンリー・スレッギル(8) ラップ/ヴォイス(リュウ・ソラ『Blues in the East』(1993年)にアミナ参加)
アート・アンサンブル・オブ・シカゴの映像『LUGANO 1993』(1993年)(アミナ参加)
アミナ・クローディン・マイヤーズ『Country Girl』(1986年)
アミナ・クローディン・マイヤーズ『Jumping in the Sugar Bowl』(1984年)
アミナ・クローディン・マイヤーズ『The Circle of Time』(1983年)
アミナ・クローディン・マイヤーズのベッシー・スミス集(1980年)
ヘンリー・スレッギル(7) ズォイドの新作と、X-75(『X-75 / Volume 1』(1979年)にアミナ参加)