片渕須直『この世界の片隅に』(2016年)を観る。新宿では毎回満員と聞いていたので、外出許可の時間に合う池袋までダメモトで足を運んでみたら、意外にも席には余裕があった。
主人公すずは、広島で海苔養殖・製造を営む家庭から、呉の海軍工廠で働く者のもとに嫁ぎ、「銃後」の辛酸を舐める。生来の朗らかなノンビリ屋のすずの顔からも、希望は次第に消えてゆく。そしてすずは負傷し、終戦を迎える。
ここに登場する人物たちの関係は、違和感があるほど和やかだ。人間関係とはちょっとした表情やふるまいのニュアンスによってこそ大きく左右されるはずのものであるのに、ここでは、そのような精神的な引っ掛かりは徹底して回避されている。微温的なコミュニティにおいて、すずも、他の人物も、与えられた状況の中でのみ前向きに行動する。
それに対する亀裂が突然現れるのは、玉音放送を聴いたあとのことである。微温的なコミュニティにおいてのみ成立していたファンタジーが突然瓦解するわけである。すずは、自分の身体について他国の作物で出来上がっていることに気付き、暴力の理不尽さを嘆く。それこそがコミュニティの外を覗き込む亀裂であった。(ここで泣き叫ぶすずについては、こうの史代の原作漫画において、他国への加害性に気付いたのだとの「ネタバレ」が出回っている。しかし、それはあくまで原作の話である。)
広島は、既に日清戦争時に陸海軍の大本営が置かれるなど軍都として存在していた(広島の戦跡)。また呉では「東洋一」の海軍工廠が稼働していた。すずたちは工廠で建造される軍艦を、単なる風景としてしか見ていなかった。その意味するものすら少しも考えず、風景画を描く有様だった。また、映画にも登場する国防婦人会は、徹底的な無思想性と庶民性をその特徴としていた(藤井忠俊『国防婦人会』)。
すなわち、これは、上から無思想になされた者たちの姿を描いた映画である。その一方で、理不尽な世界で生きていく人たちの間で新たなつながりができていく姿を描いた映画でもある。観る者は、両極端で揺り動かされ落ち着く場所を得ることができないのだが、それがこの映画の大きな価値ではないか。