病院を脱獄し、新装なった新宿武蔵野館に足を運び、松居大悟『アズミ・ハルコは行方不明』(2016年)。
足利。マイルドヤンキー。嫉妬と相互監視。突破口のない世界。もがき。「ヤベー」という言葉のみによるコミュニケーションらしきもの。
なにも地方都市を揶揄することはない。東京でもどこでも同じ資本主義社会のなれの果てである。
ここで、アズミ・ハルコの先輩は、セクハラしか頭にない上司をあざ笑うかのように、フランス人と結婚してアフリカへと旅立つ。これはまだ、現実の延長である。しかし、さらなる異常事態が訪れる。男性への復讐を目的としたJK暴力集団は、哄笑とヴァーチャルな銃で警察権力をものの見事に無力化する。アズミ・ハルコも、痕跡など関係ないとばかりに別の世界へと高跳びする。
ドゥルーズによる「マッケンローの恥辱」という愉快なことばがある。テニスのジョン・マッケンローは、とにもかくにもネット際に突進し、自らをにっちもさっちもいかない袋小路に追い込んだ。その「恥辱」によって、はじめて、情勢を突き破る「出来事」が生まれる。(廣瀬純『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』)
情勢を客観的に見れば、「出来事」など起こるわけがない。しかし、「出来事」とは革命である。そのドゥルーズ=ガタリ的な逃走線とはそうしたときにのみ描かれうるものに違いない。
西脇尚人さんのレビューに唆されて良かった。その通り、ここには革命が描かれている。もちろん、それがどのような革命かわかるなら革命ではない。逃走線の兆しに革命が過激に感じられるということである。
私の今年のベストワン。