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自縄自縛日記

松本潤一郎『ドゥルーズとマルクス』

2020-06-25 08:52:08 | 思想・文学

松本潤一郎『ドゥルーズとマルクス 近傍のコミュニズム』(みすず書房、2019年)

ドゥルーズ=ガタリは、世界史は必然の結果ではなく、誤謬と偶発性によって、遭遇によって、無数の欄外と余白によって、とらえられるものだとした。その意味で、歴史とは「目的論と必然性から逃走した『プラトー』」であるとした。これがおそらく多くのドゥルージアンを惹きつける特徴である。

それではマルクスはどう位置づけられるのか。ドゥルーズ=ガタリは、マルクスも、資本主義を固定された所与のコードとしてではなく、無数に可能であったかたちのひとつとして認識していたのだと見出していた。「産業宦官」すなわち「暴力を被る対象を生みだしつつその暴力を資本制の前提へと押し上げる国家装置、あるいはあらかじめストックされるものとしてのみ『過剰』と名指したうえで労働を収奪する捕獲装置と相同の暴力を行使する資本主義の『概念的人物』」は、そのひとつに過ぎなかったというわけである。

この「資本主義的公理」から、資本主義内部にありつつどのように逃れるか。本書ではバディウがその「非-部分」について「出来事」と呼んだと指摘する。廣瀬純氏によれば、その「出来事」すなわち革命について、フランス現代思想の面々がそれぞれ異なるとらえ方をしていた。(本書でもこの公理系の「反実現」モデルの探求の手がかりを「革命」と呼んでいる。)

ここでおもしろい点は、ファシズムに対するものとして、すなわち固定的なコード支配に対するものとして、コミュニズムを置いていることである。すなわち、一般性=わかりやすさとは「支配階級または国家に奉仕する知」であり、「物語-襞という脱説明的な叙述(描写)」が諸個人の特異性を支える経験であるのだ、と。

すなわち私たちの可能性は、失敗を通じた想像力の共有にあり、KYにあり、非談合にある。不幸=公理、と極端に言ってしまってもよいのかもしれない。

●参照
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(1996年)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』(1986年)
ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(1981年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』(1972年)
フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』(1989年)
アンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』(2016年)
佐藤嘉幸、廣瀬純『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』
廣瀬純『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』
廣瀬純トークショー「革命と現代思想」
吉本隆明『カール・マルクス』
四方田犬彦『マルクスの三つの顔』


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