ずいぶん昔に読んだ『コリアン世界の旅』は再読したいと思っている良書。その著者の野村進さんの本『出雲世界紀行』を見つけて一も二もなく確保した。
アマテラス~ニニギノミコトの「表」「顕」と、スサノオ~オオクニヌシの「裏」「幽」は知識として知ってはいたし、オオクニヌシが大黒様に同定され、その大黒天はヒンドゥーのシヴァの化身であったりするような世界と地方の神仏習合にすごく興味を持っていたわけだけれど、おもしろいのはそのような物語ばかりではなかった。
本書によれば、「裏」「幽」が祀られる出雲において、いまも日常生活にこの神々が生きているのだという。そしてこの社会には水木しげるも妖怪の導入によってただならぬ影響力を発揮している。どうやらこの妖怪というもの、民間伝承の中にあったものだが、姿かたちの創作も含めて水木先生が数十年前に蘇らせたのだった。曰く、これはバリの伝統に似ていて、ケチャもバリ絵画も20世紀になって欧米との出逢いの中で創られたものだという。つまり「現代的な伝統文化」。
出雲の神々は現代人が創りあげたものではないけれど、権力関係は古代からずっと同じではなかった。たとえば、本居宣長、平田篤胤らの思想を経て、明治において「表」「顕」にふたたび政治的に敗れ去るという激変もあった(このあたりは、原武史『<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々』がおもしろい)。最初の政治的な敗北はもちろん大和朝廷に対して。『水木しげるの古代出雲』を読んでみるとたしかに悔しそう。本書によれば、オリジナル版では出雲兵が大和兵に惨殺され、牢獄の鉄格子を握ったオオクニヌシが「水木よ、この悲惨な殺戮から目をそむけてはいけないッ‼」と叫んでいるそうである。
●参照
原武史『<出雲>という思想』
溝口睦子『アマテラスの誕生』
「かのように」と反骨
三種の神器 好奇心と無自覚とのバランス
仏になりたがる理由
鶴見俊輔『アメノウズメ伝』
「岡谷神社学」の2冊
久高島の映像(5) 『イザイホー~沖縄の神女たち~』
吉本隆明『南島論』
柳田國男『海南小記』
伊波普猷『古琉球』
伊佐眞一『伊波普猷批判序説』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
佐谷眞木人『民俗学・台湾・国際連盟』