ハノイに来る飛行機の中で、岡村幸宣『《原爆の図》全国巡回 占領下、100万人が観た!』(新宿書房、2015年)を読む。
丸木位里・俊による「原爆の図」は、実体験により描かれた作品ではない。両親などの親族を心配して、原爆投下の後に広島に入り、夫妻はそこではじめて実態を知ることとなった。したがって、地獄絵図のような有様は、母スマらから聴いての二次体験である。しかし、広島以外の地域においては、被害の実態がほとんど知られていなかった。それは、原爆の惨禍に対する反発が反米に結びつくことをおそれた、アメリカの圧力による結果でもあった。
「原爆の図」は、1950年以降に全国を巡回することとなるが、当初は、実態を知らぬがゆえに「グロテスクだ」との反応が少なくなかったという。ところが、実際の被爆者や戦争被害者による呼応があり、また再独立直後には「アサヒグラフ」誌による写真の公表もあり、その真実性がすさまじい反響を呼ぶこととなった。すなわち、この作品は、歴史の語り直しと戦争体験の共有という大きな役割を担うことになった。本書は、そのプロセスを丹念に追ったドキュメントである。
アメリカがいなくなっても、圧力は続いた。その背景には東西冷戦構造もあり、平和運動とはソ連や共産主義と関係しているものだとの根強い視線があった。「原爆の図」展示に関わった学生が逮捕される「愛大事件」や、「アサヒグラフ」の写真を大学に無届で展示した学生が退学になる「琉大事件」もあった(沖縄はまだ占領下にあったわけだが)。そして、レッドパージや労働運動の抑圧により行き場を失った人たちが、「原爆の図」の巡回展を活性化させた。関係者によれば、これは「一種の蜂起、一揆だった」のだ。
著者は、「原爆の図」は、たとえば「政治」と「芸術」との関係に限定される言説によって語られるにとどまるものではなく、「日本画」と「洋画」、「事実」と「物語」、「伝統」と「前衛」、「生者」と「死者」、「近代」と「土俗」など、実に多元的で多層的な視線を集めうる作品であるとする。このことは、丸木美術館に足を運び、巨大な作品の前に立ってみれば実感できることだ。そしてまた、「被害」の視線から、さらには「加害」の視線をも獲得し、南京大虐殺や沖縄の「集団自決」も描いたことも、あらためて評価されるべきである。
●参照
岡村幸宣『非核芸術案内』
「FUKUSHIMAと壷井明 無主物」@Nuisance Galerie(2015/6/6、丸木美術館・岡村幸宣さんとの対談)
『魯迅』、丸木位里・丸木俊二人展
過剰が嬉しい 『けとばし山のおてんば画家 大道あや展』
丸木美術館の宮良瑛子展