ソウルで、武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す』(ちくま学芸文庫、原著1968年)を読了。革命家・秋瑾の伝記である。このような作品を淡々と出す筑摩書房は偉い。
秋瑾は、漢民族を抑圧する清国政府の打倒を目指し、浙江省・紹興で活動した。1907年逮捕、同年処刑。
辛亥革命よりも前にこの世から姿を消し、また、辛亥革命に直接は関与しなかったために、さほど知られているわけではない。しかし、その活動は今では評価されているようで、紹興では大きな白い像を見た記憶がある。
武田泰淳は、酔っ払いのようによたよたとした文章で、極めてアンバランスな心を持って動いた秋瑾のことを描く。書く方も書かれる方もあやうい。
それによれば、秋瑾にとって、革命とは自らの死そのものであった。情勢が有利でないときに戦略的に雌伏して時が来るのを待つようなことは、彼女の美学には反していた。従って、孫文の革命とは相いれなかったし、革命を成功させることもなかった。仮に成功させていたとしても、安定的な政権運営などは無理だっただろう。しかし、武田泰淳は、社会の変革には、そのようなやみくもな力が必要だったのだとしている。冷静に考えるだけでは足りないのだというわけである。もっとも、それは論理もあやしい武田泰淳の言うことである。
秋瑾や、その他大勢の残したものが積み重なり、新たな民国政府が樹立された。その前後、秋瑾の活動に関係のあった者がやはり処刑されたりもしている。いちどは「NO」を突き付けられた者たちが、いつの間にかふたたび権力の座に収まったためだ。魯迅はこのことを指して、「水に落ちた犬(落走狗)は打たねばならぬ」との主張をした。
どうしても日本の現状と重ね合わせてしまうのだがどうか。
●参照
ジャッキー・チェン+チャン・リー『1911』、丁蔭楠『孫文』
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』
藤井省三『魯迅』
大島渚『アジアの曙』
尾崎秀樹『評伝 山中峯太郎 夢いまだ成らず』
僕がこの本を読んだのは40年以上も前で、そのときは白いケース入りでした。その後筑摩叢書にもなっています。なくしたと勘違いしてそれも買ってしまいました。
内容はほとんど覚えていません。清の時代の女性革命家で、日本に留学経験があり、日本の短刀を手にした写真が有名なくらい。
単行本と双書はともに、武田泰淳自らが撮影した取材写真が別刷りで綴じ込みになっていて、巻末には関連地図が折り込んであります。
文庫だとそうした資料ははぶかれているかも。
それにしても、金達寿と並んで快挙ですね。出版社の心意気を感じます。
ところで、本書にも地図と写真が収録されています。地図はともかく、写真は小さくてちょっと残念です。