Sightsong

自縄自縛日記

ギル・エヴァンス『Plays the Music of Jimi Hendrix』

2012-08-12 10:51:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

ギル・エヴァンス『Plays the Music of Jimi Hendrix』(RCA、1974-75年)は、文字通り、ギル・エヴァンスのオーケストラによるジミ・ヘンドリックス曲集である。ジミが1970年に亡くなったため実現はしなかったが、共演の計画もあったのだという。スティングと共演したギルのことだから驚くにはあたらない。たとえば、デイヴィッド・マレイグレイトフル・デッド集(>> リンク)などというものも、ギルのこのようなクロスボーダーの活動からつながる系譜にある。

勿論そのままジャズ作品として聴いても面白いのだが、折角なので、ジミの『Electric Ladyland』(1968年)とあわせて聴いてみる。「Crosstown Traffic」、「Voodoo Chile」、「Gypsy Eyes」、「1983」が、両方のアルバムで演奏されている。

どの演奏も、他のギルによる作品がそうであるように、要素がぎっちりと詰まっていてやけにカラフルでいて、同時に、やけにスマートなアレンジである。聴いていて耳が悦ぶとはこのことだ。

特に、「Voodoo Chile」におけるハワード・ジョンソンの執拗なチューバのソロ、「Angel」や「Little Wing」におけるデイヴィッド・サンボーンの鮮烈なアルトサックスのソロ、「Castle Made of Sand」におけるわれらがビリー・ハーパーのテナーサックスの粘っこいソロ、「Up from the Skies」におけるハンニバル・マーヴィン・ピーターソンのトランペットのソロなんかに耳を奪われる。

ハンニバルは「Crosstown Traffic」や「Little Wing」でヴォーカルも披露しているが、これは微妙だ(そういえば、90年代後半に「新宿DUG」で聴いたときにも歌っていた)。

一方のジミヘンはというと、怪しく燃える火のようで、これは文句なく格好いい。ごちゃごちゃ言わないで聴く。

●参照
ビリー・ハーパーの新作『Blueprints of Jazz』、チャールズ・トリヴァーのビッグバンド、ギル・エヴァンス『Svengali』
ビリー・ハーパーの映像
デイヴィッド・マレイのグレイトフル・デッド集


イ・ギュマン『カエル少年失踪殺人事件』

2012-08-12 05:43:01 | 韓国・朝鮮

イ・ギュマン『カエル少年失踪殺人事件』(2011年)を観る。

1991年に韓国・大邱で起きたこの事件は、2006年に時効を迎え、韓国三大未解決事件のひとつに数えられるという。カエルを獲りに行くと出かけた5人の子どもたちが失踪し、2002年、何度も捜査したはずの近くの山で白骨死体となって発見された事件であり、検視の結果、他殺とされた。

映画は、事件の謎を追うテレビマンと大学教授の行動を中心に描いている。前者は、視聴率さえ取れればヤラセも辞さないという傲慢な業界人。後者は、真実を執念深く追求するようでいて、本質は自己満足。彼らは、ひとりの子どもの両親を犯人だと決めつけ、強引な捜査と取材をした結果、社会的地位を失う。どうやら、犯人は、屠場で牛を屠ることを生業とする性格異常者だった。(もちろん映画であるから架空の設定である。)

テレビ、大学というインテリ権力者が、取材・研究対象たる庶民を、自らの考えだけで判断する奢りや蔑視構造が描かれていたのが面白い点だった。その一方、屠場に向けられる映画の視線が蔑視でなかったのか、「性格異常者を野放しにする」ことの危険をことさらに強調しているのではないか、といった点が気になった。


モノが好きな大人の与太話3冊

2012-08-11 21:38:30 | もろもろ

何かと気が重くて、今週はどうにも面倒な本を読み進める気になれない。そんなわけで、あれがいい、これがダメだと与太話を繰り広げている本を読み散らかす。

■ 藤本義一『モノの値打ち 男の値打ち』(ちくま文庫、原著1994年)

わたしにとって、藤本義一といえば、夜中こっそりと見ていた『11PM』の白髪男であり、文章を読むのははじめてだ。

革ジャンとか、ローライコードとか、モンブランの万年筆とか、行き当たりばったりの旅とか、鍋料理とか、いくつも持った鞄や時計とか、場末の飲み屋とか。ああ言えばこう言う感じ、さっき読んだことと矛盾したことだらけ。正反対のことを書いても印象はさほど変わらないに違いない。まあ、この人はこれで良かったのだ。

 

■ 串田孫一『文房具56話』(ちくま文庫、原著1996年)

当然というべきか、たたずまいとか物腰とかいったものが、上の本より格段に上品になる。文房具ひとつひとつについて、思い出話や、高尚でもなんでもない使い方なんかを、短く、また潔くまとめている。

消ゴムは多くの場合消ゴムらしく使われず、鉛筆による痘痕のような穴だらけである、とか。

街を歩くと広告付きの吸取紙を渡された時代があり(いまのティッシュペーパーのようなものか)、万年筆のインクがよくなるとすたれてしまった、とか。

昔は銀紙に鉛が含まれており、たくさん集めて溶かし、屋根瓦に流し込んで文鎮を作った、とか。

鉛筆削り器を使わず、小刀で鉛筆を削っている間に、なかなかいいことを思いつく、とか。

いずれも新しい製品というよりは、人が使うモノへの愛着に溢れており、いいエッセイだ。わたしにも、丸善の文房具売り場や伊東屋に立ち寄ると、ペンやノートを手にとっては使い勝手を想像したり、万年筆を試し書きさせてもらったりと、足が棒になるまでうろうろしていたりする習性があるので、こういった偏愛ぶりには共感するところ大なのだ。

 

■ 伊丹十三『女たちよ!』(新潮文庫、原著1968年)

欧米の製品や、食べ物や、ファッションなんかを、見事なほど気障に紹介し続けている。いまとなっては、たとえば、パスタの茹で具合がアルデンテでなければならないなど当たり前の話であり、西洋かぶれのおじさんのようで読んでいて少し気恥ずかしい。

しかし、これは1968年に書かれた本である。文化の先っぽに身を置いて、日本のナポリタンなどに苛立ちながら、とにかく本物を求め続けたわけであり、当時の読者はこれに圧倒されながら読んだに違いない。植草甚一がニューヨークに行かずしてまるで裏庭であるかのように書いていた、のとは違うのかな。

何にしても、身体を張って気障であろうとすることは大事だな、などと思った次第。


松風鉱一カルテット@新宿ピットイン

2012-08-09 01:26:18 | アヴァンギャルド・ジャズ

新宿ピットインに足を運び、久しぶりに、松風鉱一カルテットを聴く(2012/8/8)。何しろ、アルトサックスの元師匠である。

松風鉱一(as, ts, fl)
加藤崇之(g)
水谷浩章(b)
外山明(ds)
ゲスト 石田幹雄(p)

1st set
Touring (as)、No Easy (as)、The Man (fl)、Shallow Dream (as)、311 (ts)、W.W.W. (ts)
2nd set
Life Time Blues (fl)、Black Tree Shochu Island (ts)、K2 (ts)、Blue Blackの階段 (as)、J.C.Nagase (as)

演奏をはじめて早々に、何度も聴いた筈の「Touring」がじつに新鮮なことに驚く。もっと驚いたことに、全員のアナーキーさと自由さがただごとでない。外山氏のドラミングは超変拍子であるし、加藤氏のギターはやりたい放題。そして師匠のサックスの音色は、相変わらずつや消しでささくれている。

今回の目玉は石田幹雄のゲスト参加だと思う。こうしてライヴを聴くのははじめてなのだが、CDで聴いた印象と同様、音圧が高く素晴らしかった。このアナーキー集団にあって、個性を発揮していて、嬉しかった。

師匠と少し話をした。

「前に比べてすごくハチャメチャになってますね!」
「いいんだよ、どんどん若くなってるんだよ!」

●参照
松風鉱一トリオ@Lindenbaum
松風鉱一カルテット、ズミクロン50mm/f2
くにおんジャズ
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ
石田幹雄トリオ『ターキッシュ・マンボ』
加藤崇之トリオ『ギター・ミュージック』の裏焼き


10万人沖縄県民大会に呼応する8・5首都圏集会

2012-08-06 23:29:08 | 沖縄

米軍海兵隊によるオスプレイ導入が強行されているなか、「10万人沖縄県民大会に呼応する8・5首都圏集会」(2012/8/5、日本教育会館)が開かれた。一方の沖縄では、台風の影響により、県民大会が延期された。

広い会場は、1000人くらいの人数でぎっしり。普段は年齢層の高い場だが、今回、30、40代くらいの若い顔もちらほら見える。これは明らかな変化である。

ステージ上には、大きなオスプレイの模型がある。地獄の幻視のために作られたものだ。ただ、落ちてくるオスプレイの先で怯える女の子の人形は見られなかった(一部で批判があった)。

開会と呼びかけ団体の挨拶のあと、高橋哲哉氏(東大)により、問題提起がなされた。高橋氏は、次のように述べた。

○オスプレイの安全性に関して信用できない報告をもとに、強行配備されることを懸念する。これは、福島原発事故や大飯原発再稼働において見られた野田政権の本質をあらわしている。それは、国民の安全は二の次であり、米国の方を向いた政治だということだ。断固として反対しなければならない。
○戦後安保体制は沖縄を犠牲にし、原発は地元や労働者や採掘地域の先住民を犠牲にしている。これらは、犠牲があることを前提に成り立っている「犠牲のシステム」である。しかしこれは、日本国憲法上正当化できない。
○沖縄問題では、常にヤマトゥとの温度差がある。この集会でも、数万人、数十万人にはなっていない。
○構造的差別を許すことは、ヤマトゥの民が、差別者・加害者の側であり続けることを意味する。
○「本土の沖縄化」(便宜的に本土と呼ぶ)と言われるが、それは疑問だ。なお沖縄に圧倒的な犠牲が押し付けられているのである。本土にオスプレイが来なければ反対しないのか?いや、そうであってはなるまい。
○日本では、反対の声をあげることは、「偏った人」と見られがちであり、そのために多くの者が中立を装う。しかし、沈黙することは、差別者であることと同じである

エイサーの披露、沖縄県人会のアピール朗読のあと、「ゆんたく高江」のメンバーが、会場内で長い布をくるくると広げはじめた。実はこれが、オスプレイの縦と横の長さを示すものだという。広いホールのなかでなかなか広げ終わらない。想像力を少し働かせるだけで、墜落の怖ろしさが襲ってくる。

厚木基地爆音訴訟藤田榮治氏は、50年あまり続いているという厚木基地の反対運動について述べた。

基地機能が強化されるに伴い爆音被害も拡大している。この2月には道路に部品を落下させ、5月には突然の通告により離着陸訓練が行われ、聞いたことのないレベルの爆音が響いた。米軍の横暴極まりない行為は目に余るものだが、日本政府は何も働きかけようとしない。それがすべての元凶なのだ―――と。

次に、JUCON(沖縄のための日米市民ネットワーク)花輪伸一氏が、環境影響について指摘した。

辺野古の新基地建設に関する環境アセスメントは、途中までオスプレイの存在を隠していたという点でアセス法違反であること。高江のヘリパッドに関して沖縄防衛局が行った「自主的な環境アセスメント」でも、オスプレイ運用計画を隠していたこと。それにより、やんばるのノグチゲラやヤンバルクイナが絶滅の淵に追いやられること。本土でもオスプレイが低空飛行すれば、山岳地域のイヌワシやクマタカといった猛禽類の生態に大きな影響を与えること。

ここで、社民党の福島瑞穂党首が登壇した。

福島氏は、オスプレイの安全性に関する調査報告書が形式的に片付けられてしまうのではないかとの懸念を示しつつ、原発と同様、事故が起きてからでは遅いのだと強調した。また、森本防衛大臣がオスプレイに乗るというパフォーマンスを激しく批判した。

次に、沖縄平和運動センター山城博治氏からの電話でのメッセージ、岩国からの文書メッセージが読み上げられたあと、ジンタらムータが登場した(大熊ワタルのクラリネットに、ギター、アコーディオン、チンドン太鼓)。彼らはジャズやフォークに根ざした泥臭いグループであり、時に抒情的、時に激情的。「不屈の民」、「平和に生きる権利」(チリのビクトル・ハラの曲)、それから沖縄民謡の「えんどうの花」と「ヒヤミカチ節」を演奏した。

最後に、辺野古の座り込みを続けておられる安次冨浩氏(ヘリ基地反対協)が、電話により、オスプレイをめぐる日米両政府の対応を激しく批判した。沖縄で同日に県民大会が開けなかったのは、5万人では少ない、10万人集会にせよとの神様のお告げに違いない、などと、会場を笑わせながら。

集会のあと、デモ行進が行われた。わたしは別の用で参加しなかったが、リアルタイムの映像が次々と発信されたようだ。

●参照
オスプレイの危険性
6.15沖縄意見広告運動報告集会
オスプレイの模型
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
二度目の辺野古
2010年8月、高江
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘
高江・辺野古訪問記(1) 高江
沖縄・高江へのヘリパッド建設反対!緊急集会
ヘリパッドいらない東京集会
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(2)
「やんばるの森を守ろう!米軍ヘリパッド建設を止めよう!!」集会(5年前、すでにオスプレイは大問題として認識されている) 
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント


大木茂『汽罐車』の写真展

2012-08-06 01:12:08 | 写真

新宿のコニカミノルタプラザで、大木茂『汽罐車』を観る。同名の写真集が素晴らしかったのだ。

到着すると、受付には、既にお連れ合いの大木晴子さんが笑顔で立っていた。今日はオスプレイ反対のデモがあって、twitterで次々に様子が伝わってくるのよ、いやその集会に行ったばかりなのですが、デモには行かずここに来たんですよ、なんて話。

作品それぞれの解説が書かれた冊子を手に、じっくりと観る。

極寒の北海道では、煙が際立っている。さらにゆっくりと進む機関車は、大きな煙を身にまとっていて、感嘆する。人びとが乗り降りする駅の風景は嬉しい(おさげの少女が乗り遅れまいと走る姿!)。北九州や南九州の田舎を進む機関車の俯瞰もいい。このように観ていくと、蒸気機関車とはなんて人間くさい存在であったのかと思う。わたしは「鉄ちゃん」ではないが、それでもどきどきする。

大木さんと少しお話をした。昔の、露出が狂いがちな撮影では、なかなか焼き付けに使いにくいフィルムがあった。しかし、デジタルに取り込むと、それが何とかなるのだ、トーンも出るのだ、ということだった。

文字通り、気持ちの良い写真展。8月10日まで、ぜひ。

●参照
大木茂『汽罐車』
王福春『火車上的中国人』
土本典昭『ある機関助士』
抒情溢れる鉄道映像『小島駅』


沢渡朔『夜』 星乃舞

2012-08-05 23:32:20 | 写真

沢渡朔の写真展『夜』が今日までだというので、慌てて、新宿の「Place M」に足を運んだ。

ギャラリー内は、大きくデジタルプリントされたカラーのヌード写真で埋め尽くされている。ほとんどすべてが、暗い木々の間で、全裸でうごめく女性モデル。立っていたり、這っていたり、官能的な表情を浮かべていたり、肌に泥を付けていたり。

インモラルではあっても犯罪的ではない。確実に男性の妄想を形成する世界を、魔術的に創り出している。観るたびに、否応なく、この写真家のオンナ写真は凄いと感服させられる。こうなるとエロか芸術かなど関係がない。

会場に沢渡氏がおられたので、少し話をした。

「三國さんとか伊佐山さんとかの写真がずっと好きなんですが、しかしこれはヤラシイですね」
「そう?」
「もうカメラはデジタルですか」
「うん、キヤノンのマークII」
「沢渡さんはペンタックスのイメージなのですが」
「ペンタックスもねえ・・・」
「モデルは誰ですか」
星乃舞。昔、ヒステリックグラマーから分厚い写真集を出した・・・」
「えっ!、じゃあ年齢は」
「30ちょっとかな」
「このシリーズだけで写真集がほしいですね」
「出したいけどね」

いやあ・・・・・・。

●参照
沢渡朔『昭和』 伊佐山ひろ子
沢渡朔『Kinky』(荒張弘子)
沢渡朔『Kinky』と『昭和』(荒張弘子、伊佐山ひろ子)
沢渡朔『シビラの四季』(真行寺君枝)
沢渡朔Cigar - 三國連太郎』(写真集)
沢渡朔『Cigar - 三國連太郎』(写真展)


侯孝賢『珈琲時光』

2012-08-05 00:53:59 | 関東

侯孝賢『珈琲時光』(2003年)を観る。

この映画は、小津安二郎へのオマージュとして撮られた。整頓された二次元的なカメラが小津映画のひとつの特徴だとすれば、この映画は、二次元的な情報を東京という場でハイパー化したものだ。特に、御茶ノ水駅の立体構造のなかで、まるで小津的ドラマが紙芝居のように組み立てられている様は面白く、「フォトモ」を思わせる。

すとんすとんと整頓されているのはカメラワークだけではない。登場人物たちが、ぼそぼそと日常生活のなかで喋り、電車に乗り、食事をし、荷物を詰め直したり、といったプロセスが、瑣末なものであっても、やはり丁寧にすとんすとんと整頓され、積み重ねられていく。

それにしても、神保町の「いもや」や、御茶ノ水の駅や、都電荒川線や、高円寺の「都丸書店」なんかが、自分と他人の間を通り過ぎていく映像を観ていると、何だか胸がしめつけられるような・・・。よくわからぬままに、なぜか猛省したくなるような・・・。

●参照 
侯孝賢『冬々の夏休み』(1984年)
侯孝賢『ミレニアム・マンボ』(2001年)
侯孝賢『レッド・バルーン』(2007年)


パン兄弟『バンコック・デンジャラス』

2012-08-04 17:15:47 | 東南アジア

パン兄弟『バンコック・デンジャラス』(2008年)を観る。

殺し屋ニコラス・ケージが、足を洗う最後の仕事を行うため、バンコクを訪れる。あとは山あり谷あり、友情あり恋あり。ニコラス・ケージは多くの映画で「アブない世界に身を置く実力者かつ善人」だが、ここでも、そのキャラクターに依存した映画作り。別に傑作でも駄作でもない。

それはいいとして、彼が使っていた時計に目を奪われた(殺し屋は時間に正確でなければならない)。調べてみると、スイスのVenturaというメーカーの「V-TEC SIGMA」という製品(>> リンク)。17万円くらいして、たぶん今後も使うことはない。バンコクで雇う運び屋が、もともとパッポン通りなどで外国人に偽物のロレックスを売りつけたりしている奴で、そのコントラストが楽しかった。まあ、偽ロレックスも使うことはないだろうが。

面白いデジタル時計を使うなら、米国TIMEXのWS4なんかちょっと欲しい(>> リンク)。しかし、別に山登りもしないので、これも買うことはない。


アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』

2012-08-04 13:43:31 | 中国・四国

アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』(1959年)を観る。かつては『二十四時間の情事』という邦題で日本公開された作品だが、いまではこの最低なタイトルは使われなくなってきている。

袋小路のなかで、いつの間にか同じところを通っているような、謎めいたマルグリッド・デュラスの脚本。レネは2年後、アラン・ロブ=グリエの脚本で『去年マリエンバートで』(1961年)を撮るが、これは、はったりの迷宮でもあった。それに比べ、本作は、しっとりと沈静するような世界であり、いま観ても嫌味なところはない。

戦後10年以上が経った広島。反戦映画に出演するために来日したフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)は、建築家の男(岡田英次)と一夜の恋に落ちている。女は熱心に広島の原爆投下を学び、ベッドの中で、「わたしはすべてを見た」と言うが、男は「きみは何も見ていない」と繰り返す。翌日にはパリに帰るという女、引き止める男。

女は、終戦直前のフランス・ヌベールにおいて、ドイツ人の男と愛し合い、そのために非国民と罵られ、髪の毛を短く刈られ、地下室に軟禁されていた。駆け落ちしようと待ち合わせた場所で、ドイツ人の男はすでに撃たれ、死ぬ間際だった。それはフランス解放の直前だった。現在のヒロシマと過去のヌベールが交錯し、「あなた」はドイツ人の男であり、日本人の男でもあった。ロワール川はまた同時に太田川でもあった。

デュラスはこの映画について、「ヒロシマを語ることの不可能性、語ることが不可能であることしか語りえない」と書いたという。かつてルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは、「語りえないことについては沈黙しなければならない」と書いた。ヴィトゲンシュタインがそのように書くこと自体が沈黙ではなく、<語り>についての大きな矛盾を孕んだものだった。

「語りうることは、既に語られたことである」ということは、<歴史>なるもののあやうさをまた語っている。広島も、「ヒロシマ」というカタカナによって異化せざるを得ない対象であり、わたしたちも、<語り>のなかでしか「ヒロシマ」を見ていない。わたしもまたエマニュエル・リヴァである。

●参照
アラン・レネ『去年マリエンバートで』、『夜と霧』
新藤兼人『原爆の子』
被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(1)
被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(2)
『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』
原爆詩集 八月
青木亮『二重被爆』、東松照明『長崎曼荼羅』
『はだしのゲン』を見比べる
『ヒロシマナガサキ』 タカを括らないために


広瀬淳二『the elements』

2012-08-04 10:04:27 | アヴァンギャルド・ジャズ

3日前に足を運んだライヴハウス「七針」で聴いた広瀬淳二のテナーサックスが素晴らしかったので、ソロサックス集『the elements』(doubt music、録音2009-20年)を求めた。聴こうと思って気になっていたCDではあったのだ。広瀬氏は「やった!売れた!」を連発していた(笑)。

まずはCDウォークマンに入れて、通勤中に聴く。

ライヴと同様、高音で攻めはじめ、1時間弱の間、さまざまな周波数と味が脳を震わせる。音の重なり、倍音、ノイズ。それらが曲やパフォーマンスに奉仕するのでもなく、音そのものを目的とするかのように響く。

響くといえば、「七針」でも、氏が音を発した瞬間、室内のあちこちから何ものかが何かを叫び囁いたように感じたのだった。すべて「なってるハウス」で録音されたこの演奏でも、その場全体が取り込まれているように聴こえる。吹くとは生きることだ、なんて思えたりもして。

最近の氏の演奏をまったく聴いていなかったので、「いまでは手作りのノイズマシーンみたいなものは使わないのか」と訊いてみると、いやいやそれもやっている、とのこと。CDのジャケット裏面には、白いマーカーで、手作りマシーンの絵を描いてくれた。

●参照
広瀬淳二+大沼志朗@七針


広瀬淳二+大沼志朗@七針

2012-08-02 01:07:00 | アヴァンギャルド・ジャズ

八丁堀の「七針」で、広瀬淳二(ts)と大沼志朗(ds)のデュオを聴く。

このライヴハウスに行くのははじめてだ。東京駅から歩いたら20分以上かかった。

客は自分を含め7人ほど。酒持ち込み可ということで、人のビールばかり飲んでいた(馬鹿)。広瀬氏、大沼氏含めやたら愉快な面々で、尻に根が生えたようになってしまった。

強烈な音だった。広瀬氏の一音が響いた瞬間、ハコのあちこちから人の声が聴こえてきたような錯覚があった。そのような、さまざまな音を内包していた。そして叩きまくった大沼氏は、スティックを数本折った。