鈴木道彦『異郷の季節』(みすず書房、原著1986年)を読む。
ここには、著者の思想的背景をなす体験がつづられている。
なかでも、アルジェリア戦争(1954-62年)、そして、フランス五月革命(1968年)。かつてナチスドイツに市民レベルで抵抗し、それが国家のアイデンティティに刷り込まれている筈のフランスが、自ら植民地支配をなしたアルジェリア独立を暴力的に抑圧していた。また、やはりかつて支配していたベトナムでの帝国主義の残滓たるベトナム戦争に、市民は、あらためて異議申し立てを行った。
著者は、そのような場に居合わせただけでなく、抵抗者たちと交流し、行動をともにしている。そのことが、日本を振り返ってみたとき、在日コリアンの問題を捉えた駆動力となった。フランスにおいても、金嬉老事件(1968年)について発信している。
そのような問題をわがものとして考え、動くものは、「自分だけではないが、それでもなおかつ絶対的な少数者であった」という。それだけに、次の著者の言葉は深い意味を持ち、かつ、現在にも通じる。
「一つの集団が集団として他者を踏みにじりながら、恬として恥じないばかりか、そのことに気づきさえしないときに、その流れに抵抗する者は、少なくとも初めは完全な少数派になることを覚悟せねばならない」
「今は小泉純一郎や安倍晋三のような首相を生み出した戦後日本の無反省史観が大手を振ってまかり通っている時代だが、そのような時代だからこそ逆に戦後史は繰り返して検討の対象にすべきだろう。戦前の植民地帝国日本の歴史が残したものにどう向き合うのかということは、戦後日本の果たすべき最重要な課題である。私は六〇年代から、そこに日本の「戦後責任」があると主張してきたのだが、日本はどこまでそれを果たしたのだろうか。在日は依然としてそういう問題を日本人に付きつけているのではないだろうか。」(2007年の新装版刊行時のあとがきより)