Sightsong

自縄自縛日記

オリン・エヴァンス+エリック・レヴィス@新宿ピットイン

2016-01-17 09:07:18 | アヴァンギャルド・ジャズ

新宿ピットインにて、オリン・エヴァンスとエリック・レヴィスとのデュオを観る(2016/1/16)。

昨年(2015年)に、NYのSMOKEにおいて、エヴァンスが率いるCaptain Black Big Bandでの姿に接して以来である。レヴィスについては、やはり昨年、NYのVillage Vanguardでカート・ローゼンウィンケルの新トリオ以来。しかしかたやビッグバンド、かたや目立つ主役が別にいるという具合であるから、このようにシンプルなデュオも嬉しい。

Orrin Evans (p, vo)
Eric Revis (b)

いきなり、サム・リヴァースの「Beatrice」。リヴァース本人の演奏は勢いでぐちゃぐちゃでろでろ、ジョー・ヘンダーソンの演奏は悠然と自身のテナー・サウンドを聴かせるものだった。しかしここではスマートなブルースであり、非常に新鮮。そのあとは、レヴィスとエヴァンスのオリジナルを中心として、オーネット・コールマンの「Blues Connotation」なども演奏した。「Over the Rainbow」が聴こえた場面もあった。ホーギー・カーマイケルの「Rockin' Chair」では、なんと、エヴァンスは弾きながら喉を披露した。

それにしても、ふたりの指は鋼鉄でできているのではないかと思えるほど重たい。レヴィスはベースの背中を向けるような形で、ヘヴィ級のボクサーによる重いジャブを繰り出した。エヴァンスも迷うことなく一音一音の圧が高い指によって、ダンディなブルースを弾いた。粘っこいリフを絶妙に後ノリにしてゆき発展させたとき、観客席から反射的な拍手が起きた。

●参照
オリン・エヴァンスのCaptain Black Big Band @Smoke(2015年)
オリン・エヴァンス『The Evolution of Oneself』(2014年)
オリン・エヴァンス『"... It Was Beauty"』(2013年)
カート・ローゼンウィンケル@Village Vanguard(2015年)(レヴィス参加)


菊地雅章『Masabumi Kikuchi / Ben Street / Thomas Morgan / Kresten Osgood』

2016-01-16 10:51:05 | アヴァンギャルド・ジャズ

菊地雅章『Masabumi Kikuchi / Ben Street / Thomas Morgan / Kresten Osgood』(ILK、2008年)を聴く。

Masabumi "Poo" Kikuchi 菊地雅章 (p)
Ben Street (b)
Thomas Morgan (b)
Kresten Osgood (ds)

この音楽の異常なほどの強度は何だろう。

クレステン・オズグッドのドラムスのタイム感は、ポール・モチアンにも共通するような印象がある(モチアン、トーマス・モーガンとともに『Sunrise』を録音したのは翌年)。さらに、ピアノに追随するでもなく自身の音を発するベースふたり。

かれらとともに、菊地雅章が、思索しながら、得体のしれない音を次々に提示していく。直前までの過去を即座に棄て去るようにして。

●参照
テザード・ムーン『Triangle』(1991年)
菊地雅章『エンド・フォー・ザ・ビギニング』(1973年)
菊地雅章『ヘアピン・サーカス』(1972年)
菊地雅章+エルヴィン・ジョーンズ『Hollow Out』(1972年)
菊地雅章『ダンシング・ミスト~菊地雅章イン・コンサート』(1970年)
菊地雅章『POO-SUN』(1970年)
菊地雅章『再確認そして発展』(1970年)
『銀巴里セッション 1963年6月26日深夜』(1963年)


沢木耕太郎『キャパの十字架』

2016-01-16 08:10:20 | ヨーロッパ

沢木耕太郎『キャパの十字架』(文春文庫、原著2013年)を読む。

スペイン内戦(1936-39年)はスペイン市民戦争とも称される(英語では「civil war」)。解説において、逢坂剛は、「civil」には国内という意味があり、アメリカ南北戦争も「civil war」なのであるから、あくまで内戦と呼ぶべきだと書いている。しかし、この戦争は、ファシズムとの闘いをわがこととして他国の市民が駆けつけた戦争でもあり、その重要性をもって市民戦争と呼んでしかるべきなのではないか。

その視線があったからこそ、ロバート・キャパが撮った写真「崩れ落ちる兵士」は傑作として位置づけられ、イコンのように扱われ、キャパに一躍名声をもたらすこととなった。その一方で、この写真は、本当に、共和国軍の兵士が反乱軍の銃弾を受けて死んでゆく瞬間をとらえたものなのかという真贋論争の対象となってきた。

著者は、他の写真や証言をもとにして、写真が撮られた過程を検証していく。そして、導き出した答えは「贋」であった。そこには、若くして戦場で亡くなった恋人ゲルダ・タローの存在も関係していた。

冗長さはあれど、まるで推理小説においてパズルを解いていくようなスリルを覚える。使われたカメラが、ライカIIIa(またはライカIIIがあとでIIIaに改造されたもの)と、6x6の中判(本書ではローライフレックスとされていたが、その後、レフレックス・コレレであったことが判明)だったという事実をもとにした推理も面白い。ただ、上から覗く逆像ファインダーゆえ、咄嗟の動きに対応できず、兵士の姿が端に寄ってしまったのだとする推測には納得しかねる。さほど扱いに習熟していなくてもすぐに身体の動きと連動しうるものであるし、何より、「崩れ落ちる兵士」の構図は、兵士を左側にとらえることで完成度を増したものであるように思える。

●参照
スペイン市民戦争がいまにつながる
ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』
ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』
室謙二『非アメリカを生きる』
ナツコ(沢木耕太郎『人の砂漠』)
『老人と海』 与那国島の映像(沢木耕太郎『人の砂漠』)


イクエ・モリ『In Light of Shadows』

2016-01-16 07:39:24 | アヴァンギャルド・ジャズ

イクエ・モリ『In Light of Shadows』(Tzadik、2014年)を聴く。

Ikue Mori (electronics)

1997年に法政大学においてジョン・ゾーン、マイク・パットン、モリ・イクエのトリオを観たとき、印象はただ「やかましい」だった。そのあと特にアプローチするでもなく聴く機会がなかったのだが、何しろ、昨年(2015年)夏のエヴァン・パーカーらとのギグ3連発(エヴァン・パーカー US Electro-Acoustic Ensemble@The StoneRocket Science変形版@The Stoneエヴァン・パーカー、イクエ・モリ、シルヴィー・クルボアジェ、マーク・フェルドマン@Roulette)に接して、イメージが一変してしまった。

ここでも、エレクトロニクスだけで広くて狭い世界を創っている。宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を思わせる、宇宙/彼岸の広さ。萩原朔太郎『猫町』を思わせる、近場の落とし穴。怖くて、かつ、チャーミング。もっと追いかけてくればよかった。

●参照
エヴァン・パーカー US Electro-Acoustic Ensemble@The Stone(2015年)
Rocket Science変形版@The Stone(2015年)
エヴァン・パーカー、イクエ・モリ、シルヴィー・クルボアジェ、マーク・フェルドマン@Roulette(2015年)
エヴァン・パーカー ElectroAcoustic Septet『Seven』(2014年)


森順治+橋本英樹@Ftarri

2016-01-13 07:52:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

水道橋のFtarriに足を運び、森順治と橋本英樹のデュオを観る(2016/1/12)。

Junji Mori 森順治 (as, fl, bcl, ss)
Hideki Hashimoto 橋本英樹 (tp)

50分ほどの会話を、みっちりと2セッション。

体感しながら面白いなと思ったのは、トランペットがベクトルの楽器であり、音を発する範囲や方向がとても柔軟であるということだ。体を激しく動かしながらのダンスも、上を向いてのファンファーレも、ミュートによる封じ込めも可能。

それに対し、森さんのサックスやバスクラは、ベクトルとしてではなく、しかしその場で次々に姿を変えていき、見事だった。演奏前には、ソプラノサックスを持ってきたのにマウスピースを忘れてしまったと笑っていたのだったが、なんと、途中で、マウスピースなしで朝顔のほうから逆に息と声とを吹き込みはじめ、呼応して橋本さんもトランペット内で声を発した。そして、ここからは、アルトもバスクラも解体して、異なる方向からの音を試行することになった。

サウンドの因数分解とどのように展開するのか読めない会話。アンソニー・ブラクストンとテイラー・ホー・バイナムとの演奏にインスパイアされてのセッションだったと記憶しているが、当然ながら、それとはまた違った印象で、脳が活性化され愉快極まりないものだった。

P7800

●参照
M.A.S.H.@七針(2015年)


アリス・コルトレーン『Translinear Light』

2016-01-11 10:22:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

アリス・コルトレーン『Translinear Light』(Impulse!、2000、2004年)。おそらく遺作となったリーダー作である。発売されたあと、聴きたいと思っているうちに亡くなってしまった。そうなると平常心では聴けなくなるもので、ようやく今になって入手した。

Alice Coltrane (Wurlizer organ, p, synth)
Jack DeJohnette (ds, synth ds)
Jeff "Tain" Watts (ds)
James Genus (b)
Charlie Haden (b)
Ravi Coltrane (ts, ss, perc, sleigh bells)
Oran Coltrane (as)
The Sai Anantam Ashram Singers (vo)

曲によって異なるが、デュオ、トリオ、カルテット、最後のみコーラスと共演。

もはや、俗と聖と、天と地と、闇と光と、欲と悟りとがぐちゃぐちゃに混ざり合った恐怖感は希薄かもしれない。しかし、冒頭の「Sita Ram」はインド曲だというが、まるでパキスタンのカッワーリーのノリであり、いきなりアリスの重力圏内に吸い込まれてしまう。アリスのオリジナル曲「Jagadishwar」を聴くと、なぜだろう、泣きたくなるほどの懐かしさに襲われる。何かが共振している。

●参照
アリス・コルトレーン『Turiya Sings』(1981年)
アリス・コルトレーン『Universal Consciousness』、『Lord of Lords』(1971、1972年)
アリス・コルトレーン『Huntington Ashram Monastery』、『World Galaxy』(1969、1972年)


板橋文夫+纐纈雅代+レオナ@Lady Jane

2016-01-11 08:52:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

下北沢のLady Janeで、板橋文夫FIT!(板橋文夫、纐纈雅代、レオナ)を観る(2016/1/10)。

Fumio Itabashi 板橋文夫 (p)
Masayo Koketsu 纐纈雅代 (as)
Reona レオナ (tap dance)

レオナさんのタップを直に観るのははじめてだ。全身が鋼のように、ゴムのように、蛇のようにうねりながらスイングする、ときにはコミカルに。目も耳も釘付けである。

纐纈さんのサックス。「さとうきび畑」では、心細いながら振り絞る音、力を取り戻した音、無数の声による合唱など、何種類もの色を示す。そして「美ら海を汚すな!」のたたかいになだれ込んでゆく。「しゃがみ込む、そしてまた明日を生きる」では、まるで子どもの声、さめざめと泣くような声。オリジナル曲「卑弥呼」では、どこから出てくるのかというほどの高密度な音。最後の「In a Sentimental Mood」では、管も割れんばかり、身体のダイレクトドライヴか。

そして攻める抒情の板橋文夫。

●参照
板橋文夫『みるくゆ』(2015年)
森山・板橋クインテット『STRAIGHTEDGE』(2014年)
寺田町+板橋文夫+瀬尾高志『Dum Spiro Spero』(2014年)
板橋文夫+李政美@どぅたっち(2012年)
板橋文夫『ダンシング東門』、『わたらせ』(2005、1981年)
板橋文夫『うちちゅーめー お月さま』(1997年)
立花秀輝『Unlimited Standard』(2011年)(板橋文夫参加)
峰厚介『Plays Standards』(2008年)(板橋文夫参加)
森山威男『SMILE』、『Live at LOVELY』(1980、1990年)(板橋文夫参加)
纐纈雅代『Band of Eden』(2015年)
纐纈雅代 Band of Eden @新宿ピットイン(2013年)
鈴木勲セッション@新宿ピットイン(2014年)(纐纈雅代参加)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)(纐纈雅代参加)
秘宝感とblacksheep@新宿ピットイン(2012年)(纐纈雅代参加)


イリヤ・トロヤノフ『世界収集家』 リチャード・バートンの伝記小説

2016-01-10 08:41:38 | 中東・アフリカ

イリヤ・トロヤノフ『世界収集家』(早川書房、原著2006年)を読む。19世紀の冒険家、リチャード・フランシス・バートンの伝記小説である。

冒険家は多かれ少なかれ変人なのだろうが、バートンもまた超の付くほどの変人であった。奇人といっても怪人といっても巨人といってもよい。

イングランドに生まれ、オックスフォード大学で退屈をアラビア語の学習で紛らわすが、奔放に過ぎたため停学。東インド会社軍の募集に応じてボンベイ(現・ムンバイ)に赴き、誰もが身分の差を前提とする時代にあって、現地に溶け込み、ヒンディー語、ペルシャ語、アラビア語など多くの言語を習得する。それは辞書も何もない時代においてであって、場合によっては英国人と見破られずに最下層の社会にも入っていった。英国の軍や官吏はバートンの行動を奇怪・不快にとらえ、他国のスパイではないかという疑いさえもかけた。

英国に戻り、王立地理学協会の援助を得て、カイロでの滞在を経てメディナとメッカへの巡礼を果たす。もちろん偽装のうえであり、かれはペルシャ人の修道僧に扮した。記録魔ゆえの行動が勘繰られることはあっても、風体やことばから正体がばれることはなかった。この冒険をもとにした著書(1875年)はヨーロッパで大評判を呼んだ。

このあとにも、ナイル川の源流を求めキャラバンを率いて東アフリカを旅するなど、多くの冒険を行っている。そして、1885-88年に、『千夜一夜物語』を翻訳出版している。これは自分の創作も加えたものであり、バートン版として有名である。ホルヘ・ルイス・ボルヘス『七つの夜』(みすず書房)によれば、これは「人類学的でみだらな翻訳」であり、「部分的には14世紀に属する奇妙な英語で書かれ」ており、「古語や新造語に満ち」ているという。毀誉褒貶の激しいバートン版であるが、知識と好奇心の深い沼のようなバートンでなければものすことができなかった書なのであろう。ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアンナイト』がどの版をもとにしたのか知らないのだが、いくつかの逸話はバートン版にも見出すことができた。おかしな沼がおかしな沼に魅せられても不思議はない。(なお、わたしは一揃い持っているが途中でくらくらして読み通していない。ボルヘスも読み通せないと書いている。)

この小説を書いたイリヤ・トロヤノフもまた随分な変人であるようだ。訳者あとがきによれば、ブルガリアに生まれ、両親の政治亡命でドイツに移住。幼少時からアフリカを「発見」したバートンに興味を抱き、この小説を書くため、30代になってムンバイに移住。バートンにならってヒンディー語を学び、現地を放浪。さらに、バートンと同じ速度で歩かなければならないという信念から、アフリカ東海岸におけるバートンの踏破ルートを3か月歩き続けた。そして、次に、メディナとメッカ巡礼の旅に出た。まさにバートンに憑依された人生である。700頁弱もある分厚い小説だが、ここまで書かなければ元はとれまい。

小説のインド編においては、バートンの語りと、召使の回想とが交互に挿入される。すでにこの時点で『カーマ・スートラ』的にエロエロである。アラビア編でも、バートンの回想と、オスマントルコ総督らの猜疑心に満ちた追求とが交互に語られる。最後の東アフリカ編では、やはり、バートンと、別の英国人探検家ジョン・ハニング・スピークと、インド人の道案内との語りがぐちゃぐちゃに混交する。どこまでバートンの実際の姿なのかわからないとは言え、底無しのパラノイア的な人物であったことは痛いほど伝わってきた。

史実という面からバートンを見るには、R.H.キールナン『秘境アラビア探検史』(法政大学出版局)が良書である。バートンについては下巻に記述がある。もっとも同書もひとつの章だけでバートンを語ることはできず、東アフリカでのスピークとの手柄争いについては端折っている。

なお、『世界収集家』において、イエメンの噛む葉っぱのことを「チャット」と書いているがこれは適切ではなく、ふつうは「カート」と呼ぶ(カート、イエメン、オリエンタリズム)。キールナン本によれば、イエメンを旅したデンマーク人カールステン・ニーブールの探検隊の者がはじめて分類した(発見した)植物であったようだ。ニーブールの探検旅行については、キールナン本の上巻においてひとつの章が割かれており、また、これを小説にしたトーキル・ハンセン『幸福のアラビア探検記』(六興出版)がおすすめである。

バートンは、メッカ巡礼時にエチオピアから紅海を渡りイエメンのアデンを経たわけだが、そのルートと、カートの両方に魅せられて旅をした変人もいる。ケヴィン・ラシュビー(Kevin Rushby)『Eating the Flowers of Paradise』(St. Martin's Press、1999年)がその記録であり、当時面白く読んだ。ウィリアム・バロウズ『麻薬書簡』やオルダス・ハクスリー『知覚の扉』と並ぶドラッグ関係の奇書ではないかと思うがどうか。

 


中藤毅彦『Berlin 1999+2014』

2016-01-09 20:38:36 | ヨーロッパ

南青山の「ときの忘れもの」に足を運び、中藤毅彦写真展『Berlin 1999+2014』を観る。

『Winterlicht』(2001年)などに発表された写真群であり、1999年のベルリンを撮った作品はいくつも観たことがある。一方、同じ銀塩のゼラチンシルバープリントで焼かれた2014年の写真にあるベルリンは、明らかに、その15年前とは違うベルリンだ。陰鬱に底冷えのするような街、人間臭すなわち汚さの残る街ではなく、どこか小奇麗で、カラリとしている。

私の好みは古いベルリンである。それはもうない。ヴィム・ヴェンダースも、『ベルリン・天使の詩』(1987年)においてとらえたベルリンは、この世から消えてしまったのだとどこかに書いていた。

しかし、いずれにおいても、焼き付けられた粒子がすなわち光の粒々となって、光り、また沈んでいる。これが他にない中藤写真である。

ひととおり観たあと、中藤さんと、金子隆一さん(写真史家)とのトークを聴いた。

○写真表現にはテクノロジーが密接にかかわっている。中藤さんが『Winterlicht』を出すとき、古いグラビア印刷を求めたがそれはすでに廃されており、そのかわりに、当時日本に1台だけ残っていた東ドイツ製の印刷機を使った(それはもうない)。黒がべったりとのる特性があったからこそ、『Winterlicht』が完成した。
○1920年代にライカという機械が登場したからこそ、スナップショットが生まれた。中藤さんはOM-Dも使っているが、これも、液晶画面のライヴヴューではなくファインダーがないと受け付けない。
○これが写真の身体性だ。ノーファインダー撮影も、経験値に基づくものであり、AFではなかなか成り立たないものだった。
○中藤写真は光の写真、それは西日の光、夜の光。真実などではなく光を写している。また、都市も中藤写真も、街並みのパースペクティヴ、人のクローズアップ、モノから成る。それを撮る中藤さんは、写真集のタイトルにもなった「Street Rambler」なのだった(林忠彦賞を受賞)。
○また、中藤写真の光は北の光でもある(実際に、東南アジアなど蒸し暑いところが大の苦手だという)。なぜならば、中藤さんの原風景は、幼少時に訪れた北海道だからであり、とりわけ、納沙布岬から望遠鏡で視た歯舞・色丹という「外国」だからであった。
○中藤写真は、かつて、森山大道のエピゴーネンであると批判された。森山写真も、ウィリアム・クラインという先達なしには生まれなかった。しかし、同じであり、違っている。たとえば、ジャズの「ハードバップ」について語りながらも、ジョン・コルトレーンとマイルス・デイヴィスが明らかに異なっているように。
○このような批判は、写真文化を個人にしか帰着させなかった「観る者のリテラシーのなさ」から来ていた。いまになって、デジタルの普及、インターネットの普及、海外からの視線・批評の輸入によって、ようやく理解が深まってきたといえる。
○日本の写真には独特の大河のような流れがある。表現自体は、他国に比べ、その特性が際立っている。一方、日本の写真批評はお粗末な水準だ。

時代に逆行するかのように日本写真の特異性を語り、単純な相対化を拒否するおふたりの発言に少し驚いたのではあったが、それも、確かにガラパゴスであった日本の写真文化が持ちえたものか。

●参照
中藤毅彦『STREET RAMBLER』
中藤毅彦『Paris 1996』
中里和人『光ノ気圏』、中藤毅彦『ストリート・ランブラー』、八尋伸、星玄人、瀬戸正人、小松透、安掛正仁
須田一政『凪の片』、『写真のエステ』、牛腸茂雄『こども』、『SAVE THE FILM』
中藤毅彦、森山大道、村上修一と王子直紀のトカラ、金村修、ジョン・ルーリー


歌舞伎町ナルシスの壁

2016-01-09 15:34:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

昨年暮れにジョン・ブッチャーが来日したとき(ジョン・ブッチャー+高橋悠治@ホール・エッグファーム)、少し立ち話をして、歌舞伎町ナルシスの話をした。そりゃあ覚えている、入って左にすぐ花があって、そこで演奏した。あのレディーは元気か、わたしからのBeeeest Wisheeeeesを伝えてくれ。

そんなわけで、出かけたついでにナルシスに立ち寄った。壁にはジョン・ブッチャーはもちろん、チャールズ・ゲイル、エヴァン・パーカー、スティーヴ・レイシーなどここで演奏した面々の写真が貼られている。かれからの伝言を伝えたところ、川島ママはとても喜んでくれた。川島さんは、ちょうどかけていたローランド・カークを聴きながら「やっぱりカークはなごむわね~!」と、満面の笑みで十八番の殺し文句。

さっそく、いま香港にいて、灰野敬二とのデュオに備えているはずのブッチャー氏にナルシスの写真を送って伝えた。きのうは香港を観光したのだという。

そういえば、やはりここでソロで吹いたロル・コクスヒルもナルシスを懐かしがっていたが(ロル・コクスヒル、2010年2月、ロンドン)、再来日叶わず亡くなってしまった。

Fuji X-E2、60mmF2.4

●参照
田村隆一『自伝からはじまる70章』に歌舞伎町ナルシスのことが書かれていた
バール・フィリップス@歌舞伎町ナルシス
堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』
新宿という街 「どん底」と「ナルシス」
歌舞伎町の「ナルシス」、「いまはどこにも住んでいないの」


喜多直毅+黒田京子@雑司が谷エル・チョクロ

2016-01-09 08:58:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

雑司が谷のタンゴ・バー「エル・チョクロ」に足を運び、喜多直毅と黒田京子のデュオを観る(2016/1/8)。平日午後のライヴという企画が続けられており、夜は出かけられない人やちょっと休暇を取った人が来ることができるようにいう趣向。

Fuji X-E2、60mmF2.4

Naoki Kita 喜多直毅 (vln)
Kyoko Kuroda 黒田京子 (p)

親密な空間での、親しみやすく想像が湧くような曲の演奏。曲は、「春」「黒いカマキリ」「ふるさと」といった喜多直毅のオリジナル、「おきな草のうた」という黒田京子のオリジナル、「見上げてごらん夜の星を」「北の蛍」「忘れな草をあなたに」という昭和歌謡、武満徹が同名の映画のために作った曲「他人の顔」、童謡「月の砂漠」、キース・ジャレットが弾いたトラディショナル「My Wild Irish Rose」、ドイツの歌謡曲「Lili Marleen」。

喜多さんのヴァイオリンがいつものように素晴らしい。森進一の咳き込みそうな絶唱を思い出させる「北の蛍」での激しさ。やはり激しくはあっても、閉ざされた運命というステージでの戯画的な有り様を想像させる「他人の顔」(どうしても、映画において前田美波里が歌い、仲代達矢と平幹二郎とが絶望的に浮かれて会話をする場面が頭に浮かぶ)。ヴィブラートが琴線を刺激してやまなかった「ふるさと」や「Lili Marleen」。「見上げてごらん夜の星を」においては、流れ星のような音もあった。

黒田さんのピアノもまた、感情を励起する。ソロでも聴いてみたいところだが、「他人の顔」や「Lili Marleen」のドイツ的なところで黒田京子らしさを感じてしまうのはなぜだろう。(そういえば昔、齋藤徹さんにより、「ゲルマン的」と紹介されていたような記憶が・・・。)

次に演奏してほしい曲というアンケートが配られたので、「美・サイレント」と書いた(笑)。いや本気である。

喜多さんによると、このあと齋藤徹さんらとヨーロッパに演奏旅行に出て、「喜多直毅クアルテット」によるライヴが3/31に、齋藤徹さんの記念碑的なソロリサイタルが7/8に予定されているとのこと。

●参照
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年)
http://www.jazztokyo.com/best_cd_2015a/best_live_2015_local_06.html(「JazzTokyo」での2015年ベスト)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
喜多直毅+黒田京子『愛の讃歌』(2014年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)


ハミエット・ブリューイット+ムハール・リチャード・エイブラムス『Saying Something for All』

2016-01-08 08:48:41 | アヴァンギャルド・ジャズ

ハミエット・ブリューイット+ムハール・リチャード・エイブラムス『Saying Something for All』(Just a Memory Records、1977、79年)を聴く。

Hamiet Bluiett (bs, fl, s-cl)
Muhal Richard Abrams (p)

ニューヨークにおけるロフト・ムーヴメントの時代。かれらがどれだけナマナマしく輝いていたのか、想像するだけでクラクラとしてしまう。

ムハール・リチャード・エイブラムスは、その都度、1秒前までの過去を忘れ去ったかのように、川向うの彼岸から音楽を呼び寄せては、鍵盤を触り叩く。この人のつかみどころのなさが魅力の根源なのだと感じる。

ハミエット・ブリューイットのバリサクは、吹き始めるやオレオレ世界に入る。ブルースがむせかえるほど漂い、音域がとても広く、また駆動力が激しい。ムハールとのデュオも良いが、79年のソロはとどめる者のないハミエット世界。キーを叩いたり、口笛のような音を出したり、極低音でひた走ったり、循環呼吸を使ったり、よくわからない倍音を提示したり。数年前にワールド・サキソフォン・カルテットの一員として来日したときに駆けつけられなかったことを今だに後悔している。

●参照
ワールド・サキソフォン・カルテット『Yes We Can』(2009年)


マット・ミッチェル『Vista Accumulation』

2016-01-06 22:46:40 | アヴァンギャルド・ジャズ

マット・ミッチェル『Vista Accumulation』(Pi Recordings、2015年)を聴く。

Chris Speed (ts, cl)
Matt Mitchell (p)
Chris Tordini (b)
Dan Weiss (ds)

ダン・ワイスにより叩きだされる複雑なリズムと、一緒に踊るクリス・トルディーニのベース、マット・ミッチェルのピアノ。クリス・スピードのテナーはやはり魅力的で、かすれ、ささくれ、隙間が多い。スピードとミッチェルとのユニゾン、離脱、くんずほぐれつ。アクロバティックとも思える群舞をイメージした。

●参照
ティム・バーン『You've Been Watching Me』(2014年)(マット・ミッチェル参加)
ティム・バーン『Shadow Man』(2013年)(マット・ミッチェル参加)
及部恭子+クリス・スピード@Body & Soul(2015年)
三田の「みの」、ジム・ブラック(クリス・スピード参加)(2002、2004年)
ブリガン・クラウス『Good Kitty』、『Descending to End』(クリス・スピード参加)(1996、1999年)


マーク・ジュリアナ@Cotton Club

2016-01-03 23:49:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

丸の内のコットンクラブに足を運び、マーク・ジュリアナの「Jazz Quartet」を観る(2016/1/3)。

Mark Guiliana (ds)
Shai Maestro (p)
Jason Rigby (ts)
Chris Morrissey (b)

1時間のスーパービーツ。従来のジャズドラマーが、大きなうねりのようなノリや手癖足癖で個性を表現していたのだとして、ジュリアナのドラミングはまったくそういった体育会系のあり方と異なっている。ひとりのドラマーが何本ものビートをパラレルに走らせ、デジタル的にそれらを随時組み合わせては提示し続ける感覚。汗をかかないドラミングとはよく言ったものだ。

ジェイソン・リグビーのテナーも熱くブロウするでもなく、ニュアンスによって味をつけながら、そのパラレルなビートの綾に入り込んでいく。そして、シャイ・マエストロのピアノは、やはり綾の中で、流麗な流れを創り出している。

誰のプレイを凝視し、耳を貼り付ければよいのか? 答えは明らかに「全員」である。1時間ずっと、耳と脳が踊らされ、笑い出しそうになってしまう。

●参照
マーク・ジュリアナ『Family First』(2015年) 
ダニー・マッキャスリン@55 Bar(2015年)(ジュリアナ参加)
ダニー・マッキャスリン『Fast Future』(2014年)(ジュリアナ参加)
ダニー・マッキャスリン『Casting for Gravity』(2012年)(ジュリアナ参加)
シャイ・マエストロ@Body & Soul(2015年)


中野晃一、コリン・クラウチ、エイミー・グッドマン『いまこそ民主主義の再生を!』

2016-01-03 14:13:56 | 政治

中野晃一、コリン・クラウチ、エイミー・グッドマン『いまこそ民主主義の再生を!』(岩波ブックレット、2015年)を読む。

2014年1月18日に上智大学で行われたシンポジウム「グローバル時代にデモクラシーを再生できるか?」の発言録を加筆・修正したものであり、三氏の発言はとても示唆に富むものとなっている。上のリンク先のような概要よりも、もちろん、本書によって発言を追い、反芻すべきものだ。

特に重要なこととして、
●投票というシステムの下で負けないよう、違いがあっても、個人、社会運動、政党が「お互いを必要としている」ことを認識し、柔軟に手を組まなければならない。(コリン・クラウチ)
●メディアは国家の手先であってはならない。ジャーナリストは権力を取材すべきであって、権力のために取材すべきではない。(エイミー・グッドマン)
●ナショナリズムや右派的なものとセットで稼働する新自由主義とは、経済秩序の創出と維持を追及する大方針である。これに抗うのは個人としての論理でしかありえない。(中野晃一)
※このことを「大企業が儲けを追及して云々」と表現すると、仮想的をつくる陰謀論に容易に変化してしまう。

●参照
シンポジウム「グローバル時代にデモクラシーを再生できるか?」(2014年)
中野晃一『右傾化する日本政治』(2015年)