駅でうどんを食べながら考えた。なぜ「春菊天うどん」などと言うのか、と。
春菊天が掻き揚げだろうが構わない。問題は「トッピング+麺の種類」という言葉の構造にある。
注文する客は一般的に、自分が食べたいのは「そば」か「うどん」か、そちらが最初の選択肢になり、次にトッピングに何を載せるか(或いは何も乗せないか)を決めるように思われる。然らば、「うどん・春菊天」と言うべきではないのか。
(余談:私の灰色の脳細胞の中にある「通勤経路駅麺データベース」には、各駅ごとの駅麺屋のつゆと麺の相性も入っているため、「この店ならうどんが食べたくてもそばをチョイスすべき」と言った検索結果が出てくる場合もある。それはそれで、個人的な好みか、ウエルバランスか、検索の優先度を変えている融通性も問題である)
作る側からすれば尚更のことで、釜に放り込むのがうどんかそばか、コンマ1秒でも早く分かった方が都合良い。トッピングなど、それから迷って貰っても構わない程なのだ。それがなぜ「春菊天うどん」と倒置して注文されるのか。最後まで聞かないと客の注文が分からない、あぁまどろっこしい。
しかし考えてみればこれは、日本語の文法そのままの現象ではないか。「私は飛行機に」まで聞いても現在・過去・未来(あの機長に会ったなら~♪)いつの話か分からぬ。「人の話は最後まで聞くものだ」と言う教えを駅麺屋でも実践しなければならないとは。
もう一度問う。なぜ「春菊天うどん」などと言うのか、と。それによるメリットは何か、と。答えはすべて、千の風の中。
ちなみに私、某所の立ち食い麺屋(非食券制)では「うどん、春菊で」と言う。この方が注文が間違いなく伝わり、聞き返されることも少ないことを経験則で学んだから。
ところで「素うどん」と呼んでも「素そば」とは言わぬ。しかし「かけ」はそば・うどん共にあるのだ。何故か?考えていると会社に遅れそうなので席を立った。
春菊天が掻き揚げだろうが構わない。問題は「トッピング+麺の種類」という言葉の構造にある。
注文する客は一般的に、自分が食べたいのは「そば」か「うどん」か、そちらが最初の選択肢になり、次にトッピングに何を載せるか(或いは何も乗せないか)を決めるように思われる。然らば、「うどん・春菊天」と言うべきではないのか。
(余談:私の灰色の脳細胞の中にある「通勤経路駅麺データベース」には、各駅ごとの駅麺屋のつゆと麺の相性も入っているため、「この店ならうどんが食べたくてもそばをチョイスすべき」と言った検索結果が出てくる場合もある。それはそれで、個人的な好みか、ウエルバランスか、検索の優先度を変えている融通性も問題である)
作る側からすれば尚更のことで、釜に放り込むのがうどんかそばか、コンマ1秒でも早く分かった方が都合良い。トッピングなど、それから迷って貰っても構わない程なのだ。それがなぜ「春菊天うどん」と倒置して注文されるのか。最後まで聞かないと客の注文が分からない、あぁまどろっこしい。
しかし考えてみればこれは、日本語の文法そのままの現象ではないか。「私は飛行機に」まで聞いても現在・過去・未来(あの機長に会ったなら~♪)いつの話か分からぬ。「人の話は最後まで聞くものだ」と言う教えを駅麺屋でも実践しなければならないとは。
もう一度問う。なぜ「春菊天うどん」などと言うのか、と。それによるメリットは何か、と。答えはすべて、千の風の中。
ちなみに私、某所の立ち食い麺屋(非食券制)では「うどん、春菊で」と言う。この方が注文が間違いなく伝わり、聞き返されることも少ないことを経験則で学んだから。
ところで「素うどん」と呼んでも「素そば」とは言わぬ。しかし「かけ」はそば・うどん共にあるのだ。何故か?考えていると会社に遅れそうなので席を立った。