桐島、部活やめるってよ
2012年/日本
理想のリーダー像について
総合 90点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
バレーボール部のキャプテンで飯田梨紗という美人の彼女を持ち、校内ではスター的な存在である桐島が突然部活を辞めたことが、騒動のきっかけとなる理由は、バレーボール部の部員のみならず、彼の他の友人たちや梨紗の周りにいる女子高生たちにも動揺をもたらすからである。
桐島の代わりに試合に出場した小泉風助はいいところを見せることができずに試合に負けてしまい、菊池宏樹や竜汰や友弘は校舎の裏でバスケットボールをしながら桐島の部活が終わるのを待っていたのであるが、桐島がいなくなってバスケットボールをしている意味が分からなくなる。そんな宏樹をブラスバンド部部長の沢島亜矢は校舎の屋上からサックスを練習しながら熱い視線を送っていたのであるが、宏樹が沙奈とキスしているところを目撃してしまい淡い恋が終わる。
主人公の前田涼也は映画部に所属しており、8ミリによるゾンビ映画の監督を務めている。
クライマックスは校舎の屋上に桐島を見かけた友人たちが携帯電話で連絡を取り合って、屋上に押しかけるのであるが、屋上では前田たち映画部がゾンビ映画の撮影の最中だった。桐島がいないために映画部に八つ当たりしたことから前田が怒りだして取っ組み合いの喧嘩に発展してしまうのであるが、ここでは2つの‘グループ’を対照的に描いている。桐島というしっかりしたリーダーを失い、崩壊しかけている運動部と、普段はロケハンもまともに出来ないのであるが、ヒエラルキーが崩壊した時にこそカオスの中で映画監督という‘リーダー’として本領を発揮できる前田が所属する映画部である。ゾンビとは正に生きている人間を凌駕する‘生物’ではなかったか。同じリーダーでありながら活躍の仕方が正反対であるところが興味深い。
騒動が一段落した後に、菊池宏樹が前田に声をかけて8ミリカメラを貸してもらい、その後に、前田が菊池の方にカメラを向けて、映りの良さを褒める。やがて野球部が練習しているそばで菊池は足を止め、敢えて思い責務を背負って‘主役’として野球部に復活するか、あるいは桐島同様に人間関係の煩わしさを避けて自由を謳歌するのか思案する。
しかし実はここにはもう一つの‘可能性’が描かれていた。吹奏楽部の沢島亜矢は部長でありながら、普段は一人で校舎の屋上でサックスの練習に勤しんでいる。結局、かなりの失恋の痛手を負っていながら公にすることはないまま、桐島のように部活を辞めることもなく、自分の席について自分の役割をこなせば完璧な演奏を、諍い中の運動部と映画部の背後で聴かせるのである。必要とされていながら、自分がいなくても部活が滞ることがないくらいに他のメンバーに存在を気にさせない理想のリーダー像がさりげなく描かれている。
日本は「盗っ人たけだけしい」=竹島提訴検討で韓国与党(時事通信) - goo ニュース
一国を代表する報道官くらいは言語の使い方くらいは長けていて欲しいと切に願う理由は
日本の外相が竹島の領有権問題を国際司法裁判所へ提訴することを表明したことに
対して、韓国の洪日杓(ホン・イルピョ)という報道官が、世界に証明してもらう絶好の
チャンスとばかりに応じるのかと思いきや、「独島に対する領有権の主張を続けるのなら、
わが領土への侵略の意志を捨てていないと見なさざるを得ない」とか「日本は領土に対する
野望を捨て、隣国との善隣友好に努めねばならない」などと的外れな事を訴えている有様で
ついには日本に対して、「盗っ人たけだけしい」と非難するに至り、わざわざ裁判所に訴える
“盗っ人”が存在するのかと冷静に考えて、否と思いついてもらわなければ到底二国間のみ
ならず国連の場などでも話し合いにならないからである。
Another アナザー
2012年/日本
「現象」の原因
総合 30点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
主役を演じた橋本愛の佇まいがとてもミステリアスで良かったためにかなり期待して観に行ったのであるが、ストーリーは散々なものだった。
小説における‘叙述トリック’を使えない以上は、映画化に際しては三年三組に起こる「現象」の原因をはっきりさせなければならなかったと思う。「現象」による「死者」の目的が分からないために、クライマックスにおいて三神怜子が千曳辰治を殺す意図が不明で、その直後、三神怜子は自分自身が「死者」であることに気づくのであるが、三神怜子が本来持っている意識と「死者」の意識がどのような関係であるのかも不明で、なかなかストーリーの骨格を掴めず、結局、誰が何をしたかったのか分からないまま終わってしまっている。その意味不明なところが怖いのだと言われてしまうと、そういう怖さを否定するつもりはないのであるが、映像化に相応しいとは思えない。
韓国の若者、日本戦で声援「竹島は関係ない」(読売新聞) - goo ニュース
ほとんどの韓国の若者たちにはロンドン五輪の日本と韓国が戦ったサッカー男子3位決定戦
と竹島の問題は関係なかったようであるが、やっぱり言い出さずにはいられない人は必ず
出てくるようで、例えば、試合終了後に韓国の朴鍾佑(パク・ジョンウ)選手が、上半身裸に
なり、観客席の方に走りよって「独島はわれわれの領土」と書かれたメッセージボードを
掲げ、そのまま約1分間、フィールドを駆け回り、さらに広がり波打っている巨大国旗に駆け
寄り、問題のボードを旗の上に置いている。ハングル文字で書かれており、テレビで観戦して
いる世界中の人々には理解できないから問題は無いということで収まることなのだろうか
ローマ法王の休日
2011年/イタリア=フランス
‘ポジション’で決められてしまう人生について
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
現ローマ法王の逝去を受けて、新しい法王選出のために世界各国からヴァチカンへ枢機卿たちが招集され、システィーナ礼拝堂で投票が行われ、投票の結果、メルヴィル枢機卿が選ばれるのであるが、公衆の前で就任演説を始めようとする直前になってメルヴィルはうろたえてしまい、とりあえず演説は延期される。メルヴィルの様子を見た他の枢機卿や事務局員たちが、ただ内向的な性格のメルヴィルが精神に異常を来たしていると見做して、精神科医を呼ぶところからして皮肉が効いている。もちろん精神科医であろうと精神分析専門医でさえ原因を解明することはできない。なにせただの性格の問題であり、かつては役者になることを目指していたもののその不器用さで諦めたくらいで、人前で法王に‘成りきって’演説することさえできないほどのシャイな男なのである。だからしまいにはメルヴィルは医者に言われたように、自分の幼少時代に何か問題でもあったのではないのかと悩みだす有様で、ここの精神分析に対する皮肉も効いている。
しかしナンニ・モレッティ監督が本作で最も描きたかったことは‘ポジション’の問題であろう。確かに新法王に選ばれたメルヴィルを多くの民衆が待ちわびていたのであるが、ヴァチカンから外に飛び出してみると誰も自分のことを新法王だとは気づかずにただの老人として扱うわけで、要するに法王とは人物ではなくて‘ポジション’なのである。実際に、バレーボールに興じる枢機卿たちは、メルヴィルの姿ではなくて、法王室という‘ポジション’のカーテンが揺れているだけで満足しているし、クライマックスでチェーホフの芝居を観劇しているメルヴィルに枢機卿たちのみならず、観客たちが立ち上がって拍手をする理由は、メルヴィルが、‘貴族’が座る、舞台に最も近いバルコニー席という‘ポジション’にたまたま座っていたからである。
本来ならばラストの演説のような正直な告白が出来る人間こそ法王に相応しい人物であるはずなのであり、この最後のアイロニーも秀逸である。
背骨のゆがみ、罵り…ものともしなかったボルト(読売新聞) - goo ニュース
ウサイン・ボルトの走りを見ていていつも思っていたことがあって、1位でゴールすることが
はっきりした時点でいつも走行を緩めてしまい、確かに優勝するとはいえ、何故100メートル
にしても200メートルにしても世界記録のタイムを狙わないのかと不思議だったのであるが、
ボルトは背骨が横に曲がる脊柱側湾症を患っていて、今回の200メートルにおいても、
競技後、「直線に入った時に少し背中が痛んだから、抑え気味にした」と語っているから、
背中に絶えず“爆弾”を抱えているようなものなのであるが、それでも圧倒的な差で優勝
してしまうのだから大したものである。
特集:ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク ドイツ三部作
-年/-
永遠の‘未来の音楽’
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
『ルートヴィヒ2世のためのレクイエム』(1972年)は場面のほとんどが書き割りのセットを背景にバイエルン国王であるルートヴィヒ2世の‘芝居’が展開される。男性たちの動きは全体的に鈍く、国王と女性たちとカメラマンのアルベルトの動きだけはしっかりしている。書き割りのセット以外のシーンは、青味を帯びたブルーバックによる雪道の中を馬車に乗っている国王と、召使や医師などが茶褐色のフィルム内で国王に関して独白をするくらいである。リヒャルト・ヴァーグナーのパトロンである国王は、ヴァーグナーの死にショックを受けて、机にうつ伏しているのであるが、その背後は城に集う現代の観光客たちの様子が映し出されている。ラストは国王がギロチンにかけられ、見るからに模型である事が分かる国王の生首が掲げられた後に、再び首と胴体が繋がった国王がヨーデルを奏で、「R..I..P.」で終わる奇妙さで、ある程度歴史が分かっていなければ話についていけない。本作に俳優として出演しているダニエル・シュミットが同年に衣鉢を継ぐような『今宵かぎりは…』で監督デビューしている。
『カール・マイ』(1974年)はドイツの冒険小説家であるカール・マイを主人公としたものである。冒頭で子供たちを集めてカールが冒険談を語っているのであるが、本当に冒険をしているのかどうか疑いを持たれてしまう。そもそも馬車を使って22年連れ添っている妻のエマと秘書のクララを引き連れて旅立つシーンはあるのだが、‘冒険先’が描かれず、メインとなる出来事はカールが執筆した、ネイティヴ・アメリカンと白人の友情を描いた『ウィネトウ』が同性愛を描いたものだとして新聞社やレビウスという編集者が裁判沙汰にまでする糾弾と、カールの抵抗である。エマとの離婚後、クララに見取られて、カールは雪が降る中で永眠するのであるが、裁判所という‘ステージ’がカールに小説を書かせる原動力となったのではないかという問いが提示され、それはラストでアドルフ・ヒトラーがカールを賞賛することと関連することになるだろう。
そしてイギリスのBBCやアンリ・ラングロワまで関わっている4部作、計410分の大作『ヒトラー、あるいはドイツ映画』(1977年)において、狂気の国王であるルートヴィヒ2世と‘妄想癖’を持つ冒険小説家であるカール・マイの素質を併せ持った男であるアドルフ・ヒトラーが主役となる。
第1部「聖杯(Der Gral)」は宇宙の中心から「1」という数字が手前に向かってくるように現れ、「Der Gral」のロゴが、まるで‘聖杯’を乾杯するかのように下から上に移動する。もはや書き割りさえ十分に用意されておらず、プロジェクターやブルーバックによる背景と、マネキンが置かれている中を人形を抱えた少女が歩き回っており、人形を置いた時点から、物語が動き出すのであるが、ほとんどナレーションか1人のモノローグで他の登場人物がいてもマネキン同様に動かない。ヒトラーやナチに関する事以外は、ユダヤ系ドイツ人のエリッヒ・フォン・シュトロハイム監督作品である『グリード』(1924年)が11時間の上映時間を2時間に短縮された事や、ソ連のプロパガンダで英雄とされた少年パヴェリク・モロゾフを主人公としたユダヤ系ロシア人のセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『ベージン草原』(1937年)が未完に終わってしまった事に対する不満や、トーマス・マンなどナチスと戦い続けた作家がいる一方で、ヴァルター・ベンヤミンやシュテファン・ツヴァイクなどのユダヤ系作家が自殺に追い込まれている事を嘆いている。
第2部「ドイツの夢」は「RW(リヒャルト・ワーグナー)」の文字が刻まれた墓石の下から、何故か死んだはずのヒトラーが起き上がって「ドイツ国民が望んだ通りのことをしたまでだ」と弁明を試みる。クルト・クラウゼがヒトラーに抜擢されてから、真夜中に抜け出して一緒に過ごした‘聖夜’を語った後に、何故か宇宙について語られて終わる。
第3部「冬物語の終わり」の冒頭はハインリヒ・ヒムラーが腹回りをマッサージされている場面から始まる。戦況が良くないためもあってか占星術にのめり込んでいる様子が描かれる。ヒトラーの専属の映写技師が、1日に3本観ることもあるほどヒトラーの映画好きを語り、アメリカ映画の『白雪姫』(デイヴィッド・ハンド監督 1937年)やユダヤ系映画監督の『ニーベルンゲン』(フリッツ・ラング監督 1924年)などを挙げる。ヒトラーの母親であるクララが‘聖夜’に亡くなったことが明かされる。
第4部「われわれ、地獄の子どもたち」は当時のナチス関連の映像を背景にヒトラーに関する記録書が約45分にわたって読まれる。やがて精巧なヒトラーの人形との対話が始まる。ヒトラーは、民主的な方法で首相になり、それまで尊いものと信じられていた民主主義や指導者や忠誠などの価値観を虐殺に結びつけたことで転倒させ‘偉大’な人物と評価せざるを得ないと結論付けられる。その上、‘劇場型’ヒトラーの足跡は映画産業の活性化に役立つことが明言され、実際に最近も『ワルキューレ』(ブライアン・シンガー監督 2008年)という映画が製作されており、ジーバーベルクはそのような大量虐殺を金儲けの道具にしてしまうような‘商業主義’に抵抗するために映画撮影の伝統的な手法を放棄しているのである。
イスラエルには唯一モーシェ・ダヤンという信頼できる男がいると語られているのであるが、残念なことにモーシェ・ダヤンは1981年に心臓発作で亡くなっている。
ラストでは再び、第1部「聖杯」に登場していた少女が黒い服を着て、フィルムをリボンにして現れる。やがてリボンと黒い服を脱ぐと白無垢となり、人形を抱えて『ルートヴィヒ2世のためのレクイエム』の幼少の頃のルートヴィヒ2世のイメージに向かって歩いていく理由は、どのように考えてみても、希望よりも同じ過ちの繰り返しが含意されている。涙のイメージの中で少女は両耳をふさぎ情報を遮断することでイメージをありのままに捉えようとし、新たな祝福として「Der Gral」のロゴ再び現れるのであるが、下から上に何度も現れる度に「Der Gral」というロゴが少しずつ崩れているからである。
絶えず流れているヒトラーのアジテーションの合い間に、「ターザン」や「ローン・レンジャー」や「スーパーマン」のサウンドトラックが流れるように、本作は、古代ローマの帝国主義とイギリスの植民地主義を合わせたヒトラーの「反ユダヤ人」という壮大な芝居と、かつてのハリウッド映画の「反ネイティヴ・アメリカン」という既に忘れ去られている芝居の‘覇権争い’の考察なのであり、スーザン・ソンタグの「20世紀最高の芸術作品かつ史上最高の映画」という激賞は決して大げさなものではないのであるが、その意図的な冗長さと散漫さが、絶対にヒトラーの術中には陥らないという監督の決意を見えにくくしていることは否定できない。
とても1度観ただけでは全てを把握できない本作の詳細は、『映像の招喚 エッセ・シネマトグラフィック』(四方田犬彦著 青土社)の「ハンス=ユルゲン・ジーバーベルグ ー アドルフ・ヒトラー・スーパースター」(P.133-P.156)に譲る。
公費でボウリング大会 奈良の町村会「情報交換の場」(朝日新聞) - goo ニュース
奈良県の広陵、王寺、上牧(かんまき)、河合4町でつくる北葛城郡町村会が1970年代頃
からほぼ毎年1回、数万から十数万円の公費を投じて首長や職員が参加するスポーツ大会
を開いており、今年も上牧町のボウリング場で約2時間にわたってボウリング大会を開催し、
各町から町長や教育長ら管理職や議員、職員ら計約140人が参加し、ゲーム代や飲み物代
などの経費計10万8336円を、町村会の「調査研修費」から全額支出していた事に関して
町村会事務局長の村田孝雄・広陵町総務課長は「公費負担は、職員の保健や福利厚生に
関する計画を立てるよう定めた地方公務員法に基づくもの。職場の悩みや問題など情報
交換の場としても役立つと考えている」と話し、別に問題は無いという認識らしい。そもそも
町や村に「調査研修費」というものが必要かどうかが疑わしく、それが拡大解釈された果てに
“ボウリング大会”と化してしまう事はやむを得ないのかもしれない。平和の証という事か
ドキュメント灰野敬二
2012年/日本
対極の「ハードロック」
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
意外に思われるかもしれないのであるが、灰野敬二は、全くの対極に位置していながら矢沢永吉と同じ‘ロックミュージシャン’である。もちろん灰野敬二は矢沢と一緒にするなと言うであろうが、矢沢は金銭が発生しないことには全く興味が無いために、話題作りとしてAKB48に関して批判はしても灰野敬二の名前は口の端に掛けることさえないであろう。
川越の小学生の時の子供会の際に味わった疎外感をいまだに忘れられずにいる灰野の繊細さが、世界中から様々な弦楽器を収集し、タイポグラフィーや数字で‘譜面’を作成する彼の特異な音楽制作に現れているのであるが、その、‘0’と‘1’の間に存在するであろう音を汲み取ろうとする灰野の音楽は、正直に言うならば私には理解できない。何故ならば私にはその微妙な音を受け止めるだけの感性が備わっていないからであり、そのため私には灰野が作り出す音楽は、奇しくも矢沢永吉が作り出す音楽と同様にどれも似たものに聞こえるのである。「原発を生み出した感性」から逃れるための新たな感性を生み出すためには、例えば、1990年代にニルヴァーナのカート・コバーンが「グランジ」というジャンルを確立したように、一つのジャンルを確立する必要があるのだろうが、儚さや移ろいやすさを重視するのであるならば、‘アンビエント’は馬耳東風と化すしかない。
だから灰野の音楽を理解させようと試みるならば、灰野がバンドメンバーやビデオ撮影のスタッフに教え諭すように聴き手に音楽を作らせる以外にないのではないだろうか。
ラストの上野水上野外音楽堂でギターの弾き語りで歌う灰野が最後で太陽光を浴びるシーンが美しい。
野田首相、解散時期明示せず=「文字通り受け止めて」(時事通信) - goo ニュース
野田佳彦首相の、衆院解散・総選挙に踏み切る時期を「近いうちに」としたことについて、
「それ以上でもそれ以下でもない。まさに私の答えは文字通りに受け止めてほしい」として
時期の明示を避ける有様は、まるで菅直人前首相が2011年8月10日の衆院財務金融
委員会で「(退陣条件とする特例公債法案、再生可能エネルギー特別措置法案が)きちっと
成立した時には、すみやかに次の段階に移る準備に入らなければならない。党内で言えば
代表選であり、新しい代表が決まれば私自身が内閣総理大臣として身を処す事が当然必要
になる」などと述べ、ぐずぐずしていた様子を思い出させる。実際に、輿石東幹事長は9日の
記者会見で「2人とも代わる事はまずないと思うが、2人がいなくなったら2人の話は終わり」
と述べて9月の民主党代表選や自民党総裁選で党首が再選されなかった場合は無効に
なるとの認識を示している。それならば選挙をしたくない民主党議員たちは9月の代表選で
野田を降ろすに決まっているではないか