寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市東深津町5丁目の王子神社(その3)

2012年12月05日 | 郷土史
『廣島縣神社社誌(平成六年)』には王子神社に関する詳しい記述があるので一部を紹介する。

(旧称)王子権現社、王子大権現
祭神 天菩日命あまのほひのみこと、天忍穂耳命あまのおしほみみのみこと、天照大御神あまてらすおおみかみ、天津日子根命あまつひこねのみこと、活津日子根命いくつひこねのみこと、熊野久須毘命くまぬくすびのみこと
例祭 八月二十八日(旧暦)
本殿 一間社入母屋造、向拝付、桟瓦葺(間口一間、奥行き一間半)
付属社殿 幣殿(二坪)、拝殿(七坪)
境内地 三六七坪
由緒 創祀年代は不詳であるが、元禄(一六八八‐一七〇四)の頃より社頭が盛んになったという。
伝承 往古は石畳の上に神体石を置いただけの小社であったが、元禄の検地の時に、検地に用いる竿を役人が社の鎮座地へ入れようとしたら狐二匹がその竿先に立ち廻ったので検地の除地となった。(『西備名区』)

拝殿前の石灯篭には天保という文字が刻まれていた。背後のフェンス越しに市街地を一望できる。私は王子山の南東部に目をやった。かつての深津沖新田、手城新涯は建物で埋め尽くされている。私が中学に入る頃までは東深津町にはかなりの田んぼが残っていたし、王子町で牛を飼っている家がまだあった。

拝殿前の石灯篭

神社境内より南東方向(深津沖新田など)を望む


此の他勝成の行った主要土木工事は
○元和八年(一六二二年)五九才三吉新開
以上は郷土史家、森本繁氏著「水野勝成」から引用した

深津高地周辺の歴史と干拓
①深津高地の最南端の王子山の下からとうなんに國道二号線にでる、いわゆる登り土手から以西、現在の王子町から蓮池川(溜池)以東の字西浜にかけて木之端新涯として寛永十八年(一六四一)十八町歩造成これで深津村ができた。
⑤引野街道からさらに南の千間土手までが深津沖新田として干拓造成されたのであるが千間土堤は王子山端から梶島山を結ぶ線の堤防が作られた。

『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』

王子神社の境内から西へ歩いていくと六地蔵が祀られている。地蔵の後ろは下り坂で途中に祠(庵)らしき物がかろうじて原形を保っていた。

六地蔵

もと庵それとも祠?

墓地の端から南西方向(王子町・かつての木之端新涯)を望み、入船町・三吉町が大きく変貌していることに改めて気付いた。イトーヨーカドーの進出が大きな転機となったことは言うまでもない。

墓地より西方(王子町)を望む

王子神社動座記念碑の前で私は高低差から街の発展を知ることが大切だと思った、そしてまた写真はあくまでも記録の一手段に過ぎず自分の目(現地調査)を重視すべきだと。

王子神社動座記念碑

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企画展:行政文書からみた戦前の「大福山」構想(まなびの館 ローズコム3階)

2012年12月05日 | 日記
福山市霞町のローズコム3F歴史資料室で戦前の「大福山」構想という企画展が開催中である(月曜・祝日は休み)。明治・大正・昭和(戦前)の地図を見比べると合併によって街が発展する様子(鉄道網の整備や埋立地の拡大など)が手に取るように分かる。

有難いことに今では使われなくなった字が昔の地図にはたくさん出ている。初心者にはやや難しい内容だが、歴史資料室には優しく解説してくれる人がいるので、遠慮せずに声を掛けてみるとよい。12月8日(土)のミニ歴史散歩「福山の入り江周辺探訪(午前9時までにリーデンローズ北側広場に集合:無料)」に参加予定の人も要チェックだ。

企画展開催にあたり

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